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2013年11月29日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 91. 面変りせし蛾よ花よ灰皿よ / 北川美美


91.面変りせし蛾よ花よ灰皿よ


絵札を引くように登場してくる「蛾」「花」「灰皿」。閉塞的空間に並列されたドラマがある。そこにいるのは、蛾と花と灰皿と、そして作者。「面変わりせし」と時間経過をみつめている作者が知り得る物語を読者は想像するのである。

私には、上掲句の舞台(場面)が船上の一室のある時間経過の物語に思える。


船室に飾られた花(切花)は朽ち果てて枯れて死花となってゆく、物思いに耽る度に煙草に火をつけ吸うでもない煙草が灰皿を埋めてゆく、昼の間、鳥達の活動から身を静めていた蛾が夜の船室の光の中で羽ばたき始める。そして朽ち果てた花にとまりやがて花が涸れてゆくと同時に蛾自身も朽ち果ててゆく。それを作者は観察しているのである。

蛾も花も灰皿も密室の中で風貌が変わってゆく。面変わりしないものなどはない。生生流転、常に時は流れてゆき生まれたものは死に、そして見慣れた風景は変ってゆく。波だけを見て過ごす船の上の自分も陸に辿りつくころには乗船した時とはどこかが変わっているのである。船上生活の永い敏雄が陸上のことを少し気に留めているようにも思える。

この敏雄の一作品と同じような設定の短編小説に遭遇した。安部公房初期作品の『白い蛾』である。語り手であえる船長室に招かれた客に白い蛾の話を語る船長が、更にもう一つの話を語る、それも船長の考えた、白い蛾についての虚構の話を語る二重構造となる公房らしい複雑な構成をとっている。

***

(前略) 
 星が空一面に輝き出し、燈台の灯も見えなくなってから、一等航海手と交代した私は空腹を抱えながら部屋に帰って参りました。そして驚いたのです。何んと、さっき逃がしてやった筈の例の蛾が、ちゃんと、何時の間にか舞い戻って来て、而も前の通りにあの白バラの花弁に止っているじゃありませんか。私は何故か胸がどきっとしました。こんなつまらぬ、ささいな事に、それ程思いつめたものを感じたと言うのも、何かしらその行為に、私に対しての訴えるものがあったからだろうと思います。 
 (中略) 
 やがて或る港についた時、或る事を想像して、バラを捨てずに部屋の反対側の片隅に置いておいたのです。それからその蛾をそっと新しい花の上に置いてやりました。すると……まあその日半分位はその儘じっとして居りましたが、案の定何時の間にか枯れかけた白バラの方に飛び移っているのです。仕方無いので、どうせ早晩枯れ落ちるとは分かって居りましたが、コップに水を入れてその白バラを活けてやりました。 

 一日一日とそのバラの花弁は散って行きました。それにつれて蛾も見る見るやせおとろえて行く様でした。可愛そうに思いましたが何うする訳にも行かず放って置く内、何日位経ったでしょうか、或る朝の事です。到々花弁が最後の一枚になって終いました。 
(中略) 
無理も無い事です。そこに在ったのはよれよれになった花弁と、それにしがみついている蛾の死がいだったのですから。

(後略)
『白い蛾』安部公房初期短編集『題未定』(霊媒の話より) 

***

安部公房のこの作品と重ねあわせて敏雄の上掲句を読み解くに、「蝶や、蜂や小鳥等の、昼の光に包まれた華やかな情景」の世界に住むのではなく、闇の中に生きる「裡面に小さく閉じ込められた」蛾を花を観察する。虫の世界で居場所を見つけられなかった蛾が閉じ込められた世界のひとつの花を棲家とする。役目を終えるように腐って朽ち果ててゆく花とともに蛾も命を終えてゆく。閉じ込められた一室で煙草の煙とともにその風景を見ている作者の生き様にも重ねてみえてくるのである。


安部公房は、この物語の冒頭で語り部である船室の客に次の台詞を語らせる。

普通つまらないとか大人気ないとか言われている事が、案外目に見えない所で人生の大きな役割を占め、時には主題にさえなっているものです。目に見えているものは、その奥に在る大きな塊りの様々な性質を、ばらばらに示している仮の宿で、影の様なものだと言うのが私の意見です。


安部公房の初期作品は発表するつもりのないものであったため敏雄が目にしたということは考えられない。しかし、作家の眼として偶然性があるように思える。


「蛾」も「花」も「灰皿」も敏雄の心情を映す仮の宿で、バラバラに映る存在が敏雄の中でひとつの塊になり主題にさえもなる。シニフィアンとシニフィエとの対のことを「シーニュ」(signe)というが、私の中の上掲句の「シーニュ」(signe)=記号が安部公房の『白い蛾』と偶然に一致し、並列された。

これらが差し示すものは、何か昼の世界では生きられない閉塞的な空間、空気を感じることができる。その閉じ込められた空気感、虚無感と思える風景とともに過ごすこと、物の裏側について考えること、それを主題としていると思えるのである。 どれも不思議なシーニュである。


何か哲学的な暗喩とも思えるこの句に、物語がある。敏雄の句に登場する「蛾」自体がすべて物語の一シーンを考えさせるのである。


ちなみに敏雄は『眞神』に「蛾」の以下の三句収録している。


きなくさき蛾を野霞へ追い落す 
面変りせし蛾よ花よ灰皿よ 
色白の蛾もこゑがはりしをふせり



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