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2013年11月29日金曜日

【俳句時評】マストを畳んだその後で―澤好摩句集『光源』―   外山一機


澤好摩が第四句集『光源』(書肆麒麟)を上梓した。澤の師である高柳重信の三〇回忌の年に出されたこの句集を通読してふと思い出したのは、高柳と、高柳の友人であった本島高弓のことだった。本島の第二句集であり高柳重信の句集『蕗子』の姉妹句集でもあった『幸矢』の跋文には、本島の次のような言葉がある。

重信にとって蕗子は遂に一度もめぐりあふことのなかつた恋人であり、こころ妻であり、また娘のやうなものである。それに較べてこの幸矢は現に僕の長男である。昭和二十二年十二月の末、彼が生まれて以来の二年間の俳句をまとめて、これに「幸矢」と名付けたことには、僕なりにある種の感慨がある。薄明の中をよろめき、つまづきながら歩み続けてゐる僕にとつて、それは唯一の杖であり、ともしびのやうなものでもある。

こうした言葉とともに『幸矢』に収められた作品を読むとき、そこには本島高弓がまぎれもなく「本島高弓」であろうとするときの矜恃のありようが思われるのである。

山巓へ手をふればわが手の赤さ 
焼原や虹にもつれる無数の手 
消える虹わたしはすべもなく残る

高柳には「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」の句があるが、深い自虐と逆説の表情をもって自己と他者への愛憎のドラマを提示した高柳に対して、本島のたたずまいはどこまでも慎ましい。いわば高柳が天上を仰いでいるうちに自らも天上へと駆け上っていこうとしたのにたいし、天上をふり仰ぎながらも、地上にとどまることを選んだのが本島であったのではなかったか。高柳は書くことで「「月光」旅館」に行くこともできたし、リラダン伯爵の名の書きつけられた「月下の宿帳」を見ることもできたのであって、いわば『蕗子』とは、そうした場所にいた高柳なればこそ、書きとめることのできたなにものかであったにちがいない。むろんそれは、遂に出会えないはずのそれらに対する諦念をはらんだ営みを伴うものであって、それはまた、その諦念と含羞とをもって、それでも書いていくときに、初めて出会えるというような、多分に逆説的な営みでもあったと思う。一方で、山巓へ手をふる側にとどまった本島とは、虹をふり仰ぎながらも焼原を書きとめずにはいられない者の謂なのである。

そのまなざしはどこまでも地上にある。「消える虹」の後に「すべもなく残る」「わたし」を描いたのも、その感傷的なポーズに本島の志があるのではなく、「すべもなく残る」と書くことで、そのまま、「すべもなく残る」「わたし」のその後を引き受けていくことにこそ、本島の作家としての矜持があったように思うのである。高柳に「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」があるとすれば、本島には「トロを押し トロを押しゆく とほい海」がある。高柳は書くことによって海に出会うことができるが、本島はまさに書くことによって海にたどり着けない自らを引き受けていったのである。

『光源』を読みながらこうしたことを思ったのは、師である高柳の没年齢も、あるいは高柳が言うところの、老残の醜をさらすのをかばいつつ後進が自らの進路を清掃するための知恵としての「還暦」もすでに超えた澤が古希を前にして上梓したこの句集に次の句を見たからである。

遥々と凧揚げてそを忘じたり

澤にはかつて「空高く殺しわすれし春の鳥」があった。このときの澤に見えていたのは自らが殺すはずの春の鳥であり、その鳥を高い空とともに仰ぎ見るほかないという、どうしようもない自らのありようが描かれていたのが、たとえば『最後の走者』であり『印象』であったように思う。

旅立ちのマスト こんなに風鳴るとは 
また会おう菜の花色の灯の下で 
さらば!左舷に雨脚は濃くなつてゐる

『光源』以前に書かれたこれらの句には、なにものかへの強い憧憬と、同時に、その憧憬の手に負えなさを手に負えなさとして、あるいは戸惑いを戸惑いとしてそのまま披瀝できるだけの羞恥心がある。「また会おう」という大見得も、「さらば!」の大見得も、こうした羞恥心の裏返しであって、そうであればこそ、多分に饒舌の感さえあるこれらの句を前にするとき、僕は、このように書かずにはいられない自らのひ弱さを提示する者の強さを思い、あるいは、富澤赤黄男が『蕗子』の序文で高柳重信を評して言うところの「真の精神の強靭さとは、たとへばハンマーを振りかむるポーズの中などには決してあるものではない」という言葉が、また違った趣きをもつものとして見えてきたりもしたのであった。そして、そのような澤であればこそ、「遥々と凧揚げてそを忘じたり」の句に僕は不思議な印象を抱いたのだった。僕は、遥か彼方にある憧れに届かないことをもって澤好摩であると思っていたし、ましてや、遥々と揚げた凧を忘却するというような傲慢さは想像もできなかったのである。

夏の雲畳まれし帆はただ重し

かつて旅立ちのマストをいささかの戸惑いとともにひろげてみせた澤だが、いまその帆は畳まれている。その帆の重さは何であったか。『光源』にはまた次の句を見ることができる。

降る雪の湯船・馬槽・水漬く船

降りしきる雪の日の湯船の向こうに想起される馬槽とはキリストの揺りかごとしてのそれであろうか。しかしそれはすぐに水漬く船へと転位してしまう。夏石番矢であるならば降る雪に昇天するごとき自画像を詠んでみせたところであろうが、そのような青年らしいナルシシズムは、むろんここにはない。揺りかごがそのまま棺へと変貌するのを澤はじっと見つめているだけである。

撃たれ疲れし軍艦が泛く春の海

この句はむろん、山川蝉夫としての高柳が詠んだ「軍艦が軍艦を撃つ春の海」を下敷きにしたものであろう。『日本海軍』と題する一書をもつ高柳が山川蝉夫に身をやつしたときに生まれたこの句は軍艦への遠い憧れの表明でもあるが、澤はそのような山川蝉夫にも高柳重信にも寄り添いながら、その死後を生きてきたのである。かつて山川蝉夫が表出せしめた軍艦とは何であったか―澤はその軍艦を思いながら、しかしその軍艦の操舵室に乗り込むことはない。撃たれ疲れるまでのさまをじっと見つめているのみである。それは、しかし臆病者や卑怯者の仕儀ではない。「敏雄忌のけふの畳を掃きにけり」と詠み、あるいは「藁塚の芯乾かざる六林男の忌」と詠まざるをえない澤はあまりに多くの死に出会ってきたし、その死に対して、たとえば三橋敏雄が「戦争と畳の上の団扇かな」と詠んだその畳を掃き清めることがすなわち三橋を悼む志の表明でありうることを知っているのが澤なのではなかったか。

翻って、先の「遥々と」の句についていま一度考えてみるならば、こうした死への近しさが、かつて手の届かない場所にあったものへの近しさを呼び寄せたのかもしれない。そういえば『光源』には「みな空に帰する途中や竹の秋」の一句もある。

想ふとき故人はありぬ遠白波 
棺とせる独木舟あり信天翁 

いま澤に親しく見えているものは旅立ちの船ではなく死へと誘う独木舟なのであろうか。そしてそれを漕ぎ出だす海とは故人とともに想起される海なのであろうか。しかし、澤は遠白波に紛れこもうとはしないし、「棺とせる独木舟あり」というだけで、そこに乗り込むわけでもない。その節度をもって他者の死を引き受けるのが澤なのであろう。

僕は先に、高柳重信に「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」があるとすれば本島高弓には「トロを押し トロを押しゆく とほい海」がある、と書いた。ならば、澤にもかつて「われは泳がぬ太平洋の晩夏かな」があったのである。そして、かつて憧憬や羞恥とともに泳がないことを選んだ澤は、いま、泳がないでい続けることで、その営みがそのまま誠実なそれへと転位するような場所にいる。



澤好摩句集『光源』

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