【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2013年3月15日金曜日

戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟


【六】津田清子の処女作「毛糸編む」のこと

1) 閑話休題 「短歌的」ということ。(【五】-②-3からの続きとして)

平畑靜塔は、津田清子の俳句の主格に当たる作家的な資質「我」について、特徴を次の四句をあげて解説している。いわば俳人格の抽出ということであろう。 

① 記憶喪失水母の傘の中の海  『礼拝』昭和三四年近藤書店
② 降誕祭讃えて神を二人称   『二人称』昭和四八年牧羊社
③ 捕虫網振るたび休暇減つてゆく   『縦走』昭和五七年牧羊社
④ 毛糸編むわが眼差はやさしからむ   『現代俳句集』(昭三二年筑摩書房[現代日本文學全集91])

毛糸編むわが眼差はやさしからむ」の句は、『礼拝』には収められていないので、句集から入る人には目に触れないはずだ。しかし、この句はいわば彼女の処女作といってもいい。

その後、『縦走』が出たときに、「俳句研究」で《津田清子特集》が組まれた。その自選には載っていなかったが、橋本美代子がこの句を引用して、橋本多佳子との出会いの句であったことを語り、平畑靜塔は、清子の自画像をどう書いているのか、ということを句集ごとに追っている。

靜塔の文章は、③に挙げた句について、

 
 今から三十数年前、堀内薫と二人して、前川佐美雄さんの短歌の門を出て、橋本多佳子を通じて山口誓子の門に入ったとき、もう立派な学童の先生であった清子が、まさに縦走一筋に職業も俳句も真正面に向き、よそ見をすれば踏み外すかもしれぬが、今まで一度も踏み外したことがない。/(中略)。/

この捕虫網の句を取り出したが、
もう今なら、自画像もすらすら描けそうに思える。/中略。/

この句では、もはや、俳句も実像も、またはその虚像も、たいして背反するところがなく、その人自身に、いつでも、自らを描ける自像を作り上げて来ているのだろう。(同文結び)

というように、デビューの最初に書かれている句を、ある意味では、最も評価する書き方をしている。(これが第一句集にはおさめられていない。いかなる意図であったのだろうか。この時代、句集のための選句は多分師匠の検閲を経ていたはずなので、この句は誓子にも清子にもあまり評価されなかったのだろう)。誓子が『礼拝』序文で、清子自身もこの短歌性を切り捨て、改変しようと「俳句的」なる境地をもとめての一途に勉強を始めたことは私には非常に印象深いものを残している。
橋本多佳子は初めての句会ではこれを採って、全く初心の清子を励ましたのだが、清子にしてみれば、それは、短歌の上の句であったのだから、褒められたということ自体が少々くすぐったかったのではないだろうか?

先日のよもやま話でも「短歌的やね」という一言が出てくるのは頷ける。

同時に、美しい多佳子が自分の句をかくも熱心に批評してくれることに感動し、たちまち惹かれていった。

(しかし、靜塔は、このことを看過していないのである。ここは人間観としても俳句観としても非常に興味深い。さすが精神科の医者だ、と思うのである。)

2) 「毛糸編む」の句の成立についてー澤村秀子さんから聞いたことのメモ



「圭」終刊号を、清子の意を受けて編集し、その最後をかざった澤村秀子(さん)は、(私は、今でも時々電話をかけてその苦労話や思い出話を聞くのであるが)、この最初の出会いについては、清子は、俳句といっても何を出していいかわからなかったから、作りかけの短歌の七七をなくして、上の五七五を俳句らしくして出してみたら、多佳子がそれを特選にとって、かつ批評をしてくれた、と清子から聞いた、というのである。

そして、私が津田清子本人から何度か聞いたことによれば、前川佐美雄からは「あんたの短歌は俳句や」といわれた、ということである。どういう短歌作品のことをについてそれを言われたのかその例を知ることはできないが、堀内薫が、若い娘であった清子を橋本多佳子の許に連れて行った俳句の「大人たちの」目論見はなんとなくわかるのである。

突然のような出会いは、つまり、あらかじめ用意されていた、ということも言える。これは皮肉にいっているのではなく、どの世界でも、オルグというのはそうした人為的な根回しを伴うものである。

3)清子にとっての前川佐美雄と山口誓子の摂取その他。(メモ)



山口誓子が歌人前川佐美雄とどの程度の交流があったのかなかったのかは今のところ不勉強であるが、「天狼」は毎号送られていたはずだから、前川佐美雄が自分の元を去った彼女のその後の変貌を、見守っていたはずである。

そして、誓子がもしこの津田清子の才能を開き、「天狼遠星集」のニューフェイスに育てようとした時に、いわゆる「短歌的」な部分を払拭させようと徹底的にいわばしごいたことは想像できる。
しかし、清子に、最初に近代の芸術の感覚を教えたのは前川佐美雄である。佐美雄は清子に西洋画の画集を、これを分かるまで見なさいといって、貸してくれたそうである。牛小屋の傍の自分の部屋で、彼女はセザンヌやルノアールの絵を見続けた。彼女が吸収していった、近代の文明というもの、奈良の田舎の農家に生まれた賢い少女にとっては強烈な初体験であったことは、想像に難くない。

穿った見方をするようだが、もし橋本多佳子だけが俳句の師であったならば、清子のこのような「短歌的」な抒情を温存するかたちで別の作風に育てたのかもしれない。しかし、山口誓子が津田清子に課した期待は、それとはまた少し違うものであった(らしい)。第一句集『礼拝』に、その最初の句が外されているそのことは、清子自身の感受性になよやかに受け流す主情的な韻律性よりも、端的に物事をきりとって象徴する直観力と客観化の能力確かさがあることを見抜いたのかもしれない。

誓子は、俳句実作の場合の方法にこだわったのだ、と思う。平畑靜塔の視点は、作家の表現の根幹にある「自我」に注がれていて、いわゆる根原俳句との関わりにも通じてくる。

まさに縦走一筋に職業も俳句も真正面に向き、」はいいとして、「よそ見をすれば踏み外すかもしれぬが、今まで一度も踏み外したことがない。」というのは、からかっているのだが、清子の優等生ぶりがあまりにも危なかしささえ伴うことをそれとなく示唆しているのではないだろうか?彼女をそだてようとしている誓子や多佳子等との関係をよく見ている。

この句では、もはや、俳句も実像も、またはその虚像も、たいして背反するところがなく、その人自身に、いつでも、自らを描ける自像を作り上げて来ているのだろう。」(同文結び)

というのも、当時の女流が、個人の自我を表現することを求められていたという機運も表わしている。それが、橋本多佳子流の「女ごころ」に即して情を述べる類のものでは必ずしもない。天狼の創刊同人たちは橋本多佳子を継ぐ天狼ジュニアに、新時代の俳人としての哲学を求めたのではないだろうか?

5) この章 まとめ



今回筆者が書いた一文は、断片的に聞いた話や時々の回想文で読んだことを、私の好奇心でかなり自由に組み合わせて類推している。裏付けのできることもあるし、筆者の想像で終わるところもあろうが、初期の津田清子の軌跡は私には、非常に批評への刺激を呼び起こす存在なのである。


(この稿了)


0 件のコメント:

コメントを投稿