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2013年2月8日金曜日

文体の変化【テーマ:俳句を短歌と詩から読む】/筑紫磐井

 ~俳句を短歌や詩の批評軸で読む~


前回、安土多架志の短歌作品と俳句作品で見たように、両者は永遠に交差しないものであろうか。しばらく短歌と俳句の詠出を離れ、俳句はどのように読まれていたのかを眺めてみよう。私は、前衛俳句は「広範な文学・芸術活動の中で同定される」と思っている。前衛俳句時代はまれに見る、他分野芸術の作家たちが俳句について論じた時代であり、特に俳句と他ジャンルの同質性を踏まえて議論が行われているのが特徴である。現代の、詩や短歌との差異を認識した異質な文芸としての俳句が論じられる傾向が強いのと対照的である。例えば、直接前衛について論じたものではないが、第8回現代俳句協会賞を受賞した香西照雄作品「義民」に対して、歌人近藤芳美、詩人木原孝一は、心をこめてその文学としての不徹底さを批判している。

 まず受賞作品となった、香西照雄作品「義民」の問題作をあげておこう。

   義民
        香西照雄

月の出は何時も冷やか戦あるに
ありあまるゆゑにくづほる薔薇と詩人
一雷後の湿り香革命親しきごと
  広島にて(1句)
墓のケロイド癒えじクローバ盛り上る
薪は白樺厩に夏の漆闇
金星すでにただの夏星先駆者よ
雁来紅中年以後に激せし人
十代の日記の疑問符冬の萌(もやし)
妻も詩人濯ぎつくして白布冴ゆ
チューリップピンポンじみる愛語あらん

【近藤芳美】

  • 「新しい波」としての暴力的なものも私には感じられなかった。・・・短歌賞と異なるのは、短歌の場合の技術的な稚なさに代わる、一応の俳句技巧の熟知なのであろう。そのいくらか安易なもたれかかりとも云えないことはない。少なくとも根本への反省を欠いた俳句表現の方言的技法の駆使と私には思われてならない。

  • (受賞作「墓のケロイド癒えじクローバ盛り上る」について)歌人である私の感覚からは、薄手な知的操作としか思えないものが介入していると云う気持ちを最初に抱く。率直に云えば、やりきれないと云う感じである。

  • このような操作なり意匠なりの上に俳句一句が成り立つと考える当然の常識と、そうした意匠に生理的な反発を感じる短歌作者の感覚との相違というものを、も一度考えてみる必要があるのかも知れない。

  • (受賞作「薪は白樺厩に夏の漆闇」について)いったいこのような世界を描き出して見せる見事さが、作者にとっても、又それを読まされる読者にとっても何なのであろうかと云う疑問がともなう。俳句と云うものはその程度にとどまることによって成り立つ詩文学なのであろうか。そうであれば虚子の居直ったような作品生涯を私たちは考え直さなければならないのであろうか。

【木原孝一】

  • 香西氏をはじめ、何人かの作品を読んでまず感じたことは、あまりに「俳句」を書きすぎる、ということである。香西氏の場合であれば、次のような作品(「ありあまるゆゑにくづほる薔薇と詩人」)をなぜ発表したのか、私は理解に苦しむ。

  • 俳句はあくまでも部分の側に立つか、それとも全体を目指すか、それによって自らの運命を決定するだろうと私は思う。部分の側に立つならば、それは健康な精神のゲームとして多くの愛好家の手によって作られ、無制限に作品は殖えてゆくだろう。全体を目指すならば、それは魂のエンジニアとして、人間に慰めを与えるために選ばれたる作家の抑制と苦悩のなかから、絞り出されるようにして制作されて行くだろう。

これらの主張がすべて正しいとは毛頭思わない。現代の詩人や歌人が彼らといまも共感しているとも思わない。しかし、これくらいいわゆる伝統俳句が、詩や短歌のジャンルから狙撃されていた時代はなかった。それは共通した批評の言葉が成り立つと思われていたからである。抽象、難解、造型という表層ではなくて、批評の共通性という迂遠な現象こそが前衛の時代を証明していたと思えてならない。しかし、本当に批評の共通性があったのであろうか。

 参考までに、金子兜太の香西作品に対するコメントを述べておこう。

【金子兜太】
けっきょく草田男さんというのは未分化状態の意識とでもいいますか、父母未生以前のカオスとでもいいましょうか、言葉は悪いんですが、磯ギンチャク的な活動とでもいいますか、それが基本の魅力ですね。
香西氏は戦中派ですしね、かなり割り切った論理を求めていると思うんです。そこの差がはっきり一つある。ところがそれにもかかわらず草田男さんのそういう父母未生以前のカオスの状態から出てきた俳句のスタイルをまねて作っている節がある。句でいいますと、たとえば、「月の出は何時も冷やか戦あるに」。それから「ありあまるゆゑにくづほる薔薇と詩人」という全体の発想法、発想内容と申しますか、それから「一雷後の湿り香革命親しきごと」、それから「金星すでにただの夏星先駆者よ」というようなキャッチの仕方、かぞえればきりがないんですけれども、ことほどさようにある。

殊に最近2ヵ年間の作品となると、その色彩が非常に濃厚だと思います。このことはけっきょく次第にそういう草田男式スタイルに巻き込まれている。さっき草田男氏のいったように、彼自身の空白状態もあってということですが、ますます草田男氏のほうへ引き込まれていると思います。

選考経緯ではもっと端的に「香西照雄には反対した。ぼくが一番猛烈な反対者だったと思うが、理由は、表現に草田男の影響が強すぎ、そのなかで香西独自のものは育ってはいるが、それは作品としては現状では草田男を超える内容には到っていないという点である。従って今回の香西受賞は、むしろ彼の長い真面目な努力に対する功労賞であり、それは多分に同情票が入っていると思う」とのべている。

このように、金子は香西作品を批判しているものの、それは草田男の糟糠をなめているという点に集中していて、近藤や木原のいう、俳句表現に親しみすぎたという点は露骨に指摘されていない。もちろん造型俳句論のなかにそうした俳句らしい表現に対する批判がないというわけではないが、個々の作品批評の中でそれが明確に出ていないと言うことだけをとってみても、本来近藤・木原のような俳句の外からの批評と視点が微妙にずれているように思うのである。

そして、兜太の言っている内容が妥当かどうかは別としても、兜太の俳句の批評の方法がまっとうであることは、伝統、前衛を問わず納得出来ると思う。「表現にAの影響が強すぎ、そのなかでB独自のものは育ってはいるが、現状ではAを超える内容には到っていない」という言い方は、高濱虚子と星野立子、山口誓子と鷹羽狩行、富安風生と岡本眸など、一度はそういう批判を浴びたであろう(もちろんその後はるかにそうした世界を脱却している作家ではあろうが)。つまり、俳句の共通批評用語で金子兜太は語っていることになる。しかし、歌人や詩人はどうであろうか。<根本への反省を欠いた俳句表現の方言的技法の駆使><操作なり意匠なりの上に俳句一句が成り立つと考える当然の常識><あまりに「俳句」を書きすぎる>を最もと思いつつ、個々の作品の批評としては使い切れないと思う俳人は圧倒的に多いのではなかろうか。

にもかかわらず、こうした歌人、詩人に最も近く接近したのが前衛俳句時代だったのである。

ちなみに、香西照雄の句として最も有名な句は「義民」の中の、兜太の批判した次の句である。

金星すでにただの夏星先駆者よ

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