30. 寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き
船上従事者としての敏雄の視線が伺える句が4句つづく。
敏雄は戦後、運輸省の練習船事務局長の職に就いていた。幾つもの港に寄ったことだろう。そして数えきれない港を去ったことだろう。
セロリは戦後の食卓で西洋料理が一般化してから普及しはじめた。戦後の日本ではまだ目新しかったころのセロリを寄港地で見たというように受け取れる。
敏雄が清酒「八海山」が好みだったということを山本紫黄がよく口にし敏雄を懐かしがっていた。外航生活が長いとはいえ、食べ物、料理の句に遭遇しない。食べることが精一杯だった世代でもある。食を礼賛することは、敏雄の趣味ではなかったようだ。
セロリを抱く。「抱き」の自動詞からセロリを抱いているのは敏雄自身と読める。港に訪れた地元の行商からセロリを買い、甲板から離れていく港の船着場を眺めているように思える。戦前の新興俳句の表現ならば「セルリー」だったかもしれない。戦後の西洋という意味で「セロリ」という表記なのか。山崎まさよし作詞作曲『セロリ』があるくらいなので苦手な食物として挙げる人も多いだろう。女性との苦い思い出を「セロリ」に掛けているのかもしれない。
大阪のガスビル食堂のコース料理につく生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物らしい。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、栽培したそうだ。秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、ガスビル食堂の生セロリを絶賛している。
やはり「セロリ」は西洋を意識的に表現するものとして捉えるべきだろう。
腿高きグレコは女白き雷 『まぼろしの鱶』
グレコが西洋の女性であればセロリも手足が長い西洋の女性のこととも思える。「セロリ」は碇泊中の女性を示す「隠語」という見方もできるが、敏雄の抱く西洋というものが「セロリ」だったのだろう。
「去るべし」の措辞は、推量・意志・当然・適当・命令・可能と多義であるが、作者自身の一人称と読み、「いくつもの寄港地を去るべきである」という意に読める。やはりセロリを抱いているのは作者本人と解釈する。
新興俳句の特徴でもあった、モダニズムの表現は、敏雄の中で当初より厳選されている。
例えば、
少年ありピカソの靑のなかに病む 『靑の中』
この句の「ピカソ」と掲句の「セロリ」の捉え方は何ら変わっていない。「セロリ」に抱(いだ)くモダニズム、西洋への憧れ、ピアスとしての「セロリ」が、俳句の中で如何に融合するのか、それを当初より敏雄は理解していたとしか言いようがない。
敏雄は、俳句として「セロリを抱(だ)いた」ことになるのだろう。
31. 日にいちど入る日は沈み信天翁
人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす
『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている
上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。鳥からの視点が感じられる。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか
アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く
傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳
「世は去り世は来る地は永久に長存なり 日は出で日は入りまたその出し處に喘ぎゆくなり(略)」
上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」
これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く敏雄の冷静で巧みな術がある
戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である
32. 帆をあげて優しく使ふ帆縫針
敏雄の経験に基づく実景句だろう。
帆船の美しさには心酔する。「順風に帆を上げる」という諺がある。追い風のときに帆をあげて出帆する。万事好都合にいくことをいうが、日本の帆船の数奇な歴史に改めて「帆をあげて」という措辞が希望の言葉として読み取れる。
敏雄は昭和21年より同47年まで帆船練習船「日本丸」「海王丸」ほかに事務長として歴乗した。戦争という数奇な運命を辿った帆船、現在「日本丸」はみなとみならい21に展示保存、「海王丸」は富山新港海王丸パークに一般公開されている。どちらの帆船も太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として引揚者を輸送。帆装が再取付けされたのは、1952年(昭和27年)であった。数奇な運命を辿った二隻に再び帆が取付けられたということは敏雄のみならず国民にとって感慨ひとしおであったことだろう。
筆者の父のことになるが、父は、満州北部の佳木(ジャムス)の地で19歳の医学生として終戦を迎えた。亡父の朋友であり、抑留14か月後の昭和20年10月に引揚船(病院船)にて帰国した五味誠氏(満州国立佳木医科大学第4期生、現・馬込医院医院長)に話を伺った。
「僕は、新京駅から多くの患者たちに付添い、コロ島から引揚船に乗った。米国貸与のリバティ型貨物船だった。引揚者の患者が蚕の寝床のように板状に釣られて横たわっていた。医学生として船中で患者に付添うことが目的だった。蔓延していた結核、発疹チフスの患者たちだ。助からない患者を看取り、水葬するため遺体を海に沈めなければならなかった。辛かった。一学年下の同郷の友人が結核であったため、彼を故郷に連れて帰るという大目的があったが、1週間船に揺られ、さらに博多港の検疫所で1週間。彼は日本の地を踏む事なく息絶えた。あの引揚船でのさまざまな光景は、今もはっきりと憶えている。しかし、思い出すのは嫌だ。いつまでも辛い想いで忘れることはない。」
すでに敗戦後67年が経過してようとしている。壮絶な人の死を見てきた人の心は癒えることがない。敏雄と同世代、生きていくことが精一杯だった人々の底力を感じる。
あえて「やさしく使ふ」と表現しているが、帆縫針を帆を縫うために「やさしく使ふ」のであれば、敏雄の心の中に刻まれた人の死を一針一針鎮魂しているように思えるのだ。
33. 行雁や港港に大地ありき
雁の股旅物語。「港港に女あり。渡る世間に未練はねぇ。」山本紫黄の十八番だった「名月 赤城山」の歌詞(作詞:矢島寵児/歌:東海林太郎)には、「渡る雁がね」と入っている。マドロスも股旅である。港も大地も女性を思わせる。
雁が港にやってくる。そこには、母なる大地が出迎える。命を育む大地があるからこそ、雁は命をつなぎ翼を休ませることができる。大地の恵みを受け取りながら、鋭気を養い、生きながらえて再び目的の地へ向けて北上するのである。
戦後、敏雄が海に逃れていた昭和30年代、日本人船員黄金時代でもあった。船乗りの給与は陸地の平均給与の約3倍といわれる時代であり、当時のドラマやアニメのパパ役は大抵が豪華客船の船長かパイロットという設定。海外航路に従事することは当時の憧れの職業であった。1ドル360円、為替が固定相場だった時代である。
現在は外国人就労者が8割になり、海運国である筈の日本にとっては、深刻な問題でもある。当時の寄港停泊は1週間が当たり前だったらしく、その時間を利用して敏雄は神戸の三鬼館を尋ねたりしている。長期航路の敏雄を三鬼との三鬼門の仲間(大高弘達・葩瑠子、大高敏子・淑子姉妹、山口澄子、山本紫黄)が横浜港に迎え、事務長私室にてオールドパーの封を切り、その後、新橋で宴という私上でも華やかなパーサー時代であったと想像する。
「まだ国際航海は許されていない頃であった。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなった。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかったが、常に波浪に隠れ易く、あわれであった。時に復員船に仕立てられ、中国大陸や台湾にも幾度か在来した。朝鮮戦争では、米軍命令で彼の国の難民輸送にも当たらされた。句材には事欠かぬ筈であったが、志衰え、占領下激動するあらゆる社会現象に対しても、敢えて興味を持とうとはしなかった。幸い私の乗っていた船は航海練習船であったから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地はなかった。全く私は海に逃れていたのである。」
『まぼろしの鱶』後記
「大地ありき」とは、「大地がはじめからあった」「大地がもともとあった」という意味になる。港、船、車が「愛しい人」というニュアンスを含め女性名詞として表現されることがあるが、「大地」も愛しい人である。
大地の愛しい人を期待した旅の絵葉書が敏雄から紫黄へ届く。絵葉書は、南の島の女性が大らかに椰子の実のジュースを飲みほしている写真だ。
「途中ジョンストン島で核爆発(*1)のオレンジ色の余光を1000マイルはなれたところから望見したほか何も見ることなくタヒチに着きました。地上最後の楽園の呼称もいまは地に落ち単なる観光地の様相です。(中略)シコウのためにようやくこのエハガキを入手したので早速送ります。日本が地上最後の楽園かも知れません。オッパイに関する限り」
『弦』23号より(2008.10.1 遠山陽子刊)
絵葉書の文面から港港の字面がオッパイに見えてきた。
*1)1956(昭和33)年7月31日敏雄は水爆実験に遭遇する。