56.花火の夜暗くやさしき肌つかひ
花火の句が2句つづく。花火は夏の季語。エロティックな句である。花火は夜に打ち上げるものだが、敢て「花火の夜」としていることで「特別な夜」の意味合いを感じる。
女との逢引に花火の日を選んだ。はじめからその女を抱きたいと思い、その夜を選んだと空想が走る。大輪の花火の明るさと、特別な夜、「肌つかひ」から「息遣い」を連想させ、読者を大人の世界へ連れて行く。俳句は大人の遊びである。
「暗く」と「やさしき」が並列されていることに不思議さがある。肌をすべる指の動きを形容しているのならば、その「暗さ」はその人の過去とも想像が働いていく。やさしくて暗いということに魅力を感じる人がこの句に感銘を受けるだろう。
そして、敏雄の師、三鬼に花火の句がある。
暗く暑く大群衆と花火待つ 三鬼
敏雄は師である三鬼の花火の句の続きを詠んだのかもしれない。
57.しらじらと消ゆ大いなる花火の血
花火の句二句目。
明るさの中で弾けて行く花火、その零れる発光を「花火の血」としていると解釈する。
「花火の血」とは何だろうか。
不意に指を切り、ポトポトと滴れる血は表面張力のある円となる。勢いがなければ花火のようにはならない。「返り血」というものを実際見たことが無いが、劇画での「返り血」は不定形に飛び散るもので、円形に開く花火というより爆発のイメージに近い。
溢れて噴出している空に映る光を「血」とした。
敏雄が見た「血」と「花火」。そこから「戦火」を想像するのは短絡ではない気がする。「戦火」と「花火」どちらも火薬でできている。爆発するものの閃光を想像する。
消えて行くのは光であり命でもある。花火から連想される命という儚さ。花火が川開きに打ち上げられるのは死者の霊を弔うということがはじまりらしい。精霊も花火と血とともに流れて消えてゆく。命とは光のようなもの、噴き出して爆発する光。命の象徴を「血」としたのだろうか。
花火は戦後、GHQにより火薬製造が禁じられたが、1948年に両国川開きの花火大会が復活した。平和な時代を象徴するかのような花火にどこか冷めた眼で閃光をとらえている世代がいたことを思う句である。
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