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2025年9月26日金曜日

【新連載】口語俳句の可能性について・2  金光 舞 

【学生俳句大会コラム】(筑紫磐井)

 本BLOGで紹介している全国学生俳句会に関する情報を提供します。

➀フリマ

 全国学生俳句会合宿 2025の結果が報告書にまとめられることとなり、文学フリマ東京41(11月23日)にて販売される予定です。本論を執筆している、金光舞さんの入選論文も掲載の予定。

➁コールサック

 コールサック社の「コールサック」124号で、「全国学生俳句会合宿 2025」のルポを鈴木光影氏がまとめられる予定です。11月上旬刊行、定価1650円です。

俳句四季11月号

 「全国学生俳句会合宿 2025」の紹介を馬場叶羽さんが、「俳壇観測」で筑紫磐井が「大学生俳人の意識」として合宿参加者各位の考えの紹介を行う予定。10月20日ごろ刊行、定価1100円です。


 自序では、従来の俳句が文語を基調とした定型・季語・簡潔な描写を軸に成立してきたことを確認したうえで、戦後の現代俳句における形式の硬直化が指摘される。その停滞を打破する試みとして「口語俳句」が登場し、俳句を現代の言語感覚と接続し直す営みであると位置づけた。

 越智友亮『ふつうの未来』の〈ゆず湯の柚子つついて恋を今している〉を取り上げ、以下の論点を示した。

一、 季語「ゆず湯」という伝統的要素に、「恋を今している」という現代的で直接的な口語表現が結合している。

二、 「今」という語が現在進行形の切実さを強調し、読者をその瞬間へと立ち会わせる。

三、 直接的な表現が余情を損なうのではなく、柚子をつつく仕草や香気と重なり合い、新たな余韻を生み出している。

四、 伝統形式と口語的感覚の交錯が、句全体に独自の温度感をもたらしている。

このような点を通して、口語俳句は「省略と余白の美」から一歩進み、「口語の直接さが生む余韻」という新たな地平を切り拓くことが示された。同時に、それは「生活俳句」「青春俳句」「SNS俳句」といった今日的潮流とも呼応し、時代の呼吸を取り込む詩型として注目される。ただし、口語表現には「古びやすさ」という危うさも伴うことが、暮田真名の批評を通じて指摘されており、口語俳句の意義と限界を考察する視点が提示されていることを確認した。

生きた言葉として

 こうした試みは、実は新しいものではなく、すでに1市川一男『口語俳句』(1960)において理論的に提起されていた。市川は、 文語に依存した俳句の硬直性を批判し、日常の息づかいをそのまま作品に取り込むことの重要性を説いた。つまり「生活と詩の直結」である。口語俳句は、単にくだけた言葉遣いというのではなく、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉をそのまま句の器に定着させようとする試みなのである。


2 すすきです、ところで月が出ていない

3 草の実や女子とふつうに話せない

4 焼きそばのソースが濃くて花火なう


 いずれの句も、伝統的な季語を含みながらも、そこに会話調やネットスラングといった現代的な表現を重ね合わせている。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉この一句を読むとき、私たちはまず冒頭の〈すすきです〉という言葉に引き寄せられる。俳句の上五に「すすき」と置かれれば、誰もが古典的な抒情を思い描くのではないだろうか。秋の野にたなびく薄の穂、月光を受けて銀色に輝く草姿、風にそよぎながら静かに佇むその情景。古来より多くの歌や句で讃えられてきた、典雅で気品ある自然描写が立ち現れるはずだ。ところがここでは「すすきです」と、まるで自己紹介や宣言のような言い方で始まる。これが一気に調子を崩し、読者を意表を突かれた気持ちにさせるのだ。

 しかも、この「すすきです」という響きは、ただの植物名の提示にとどまらない。音として耳にすれば、「す、好きです」という告白の言葉にきわめて近い。恋の言いよどみ、声に出した途端に赤面してしまいそうな、そんな不器用な気持ちが、この一句に重ねられる。作者は意図的に「すすき」と「す好き」の響きの重なりを利用し、伝統的な自然詠を装いつつ、実際には恋の吐露を仕掛けているのだ。この二重性が、句の第一印象を豊かにし、読者の想像を一層膨らませてくれる。

 さらに続く「ところで月が出ていない」という中七下五の句が、鮮やかな転調を生み出す。古典的な薄の描写には通常「月」が不可欠だ。秋の名月と薄は、千年以上にわたり連歌や和歌の世界で相性よく取り合わせられてきた。しかしこの句では、その期待を裏切るかのように「月が出ていない」と断言される。これにより、私たちが期待していた雅な光景は一瞬で霧散し、代わりに月を伴わない現実のすすきが立ち現れる。まるで理想的な舞台は整っていない、それでも自分の気持ちを伝えたいという、切実で不器用な人間像が浮かび上がるのである。

 ここでの「月が出ていない」という事実の提示は、単なる自然の状態の報告ではない。むしろ告白の場面において完璧なロマンチックな条件はそろっていないと白状してしまうような、正直さと滑稽さを帯びている。これによって句全体は、古典的な美の模倣から大きく逸脱し、人間的な温かみ、さらにはコミカルな愛らしさを獲得する。読者は自然描写の荘重さを期待して読み始めたのに、いつの間にか目の前に告白の言葉を探している一人の人間が立っているように感じさせられるのだ。

 つまりこの句の最大の魅力は、美と不器用さの落差にある。薄のように繊細で、月夜のように幻想的な情景を呼び出しておきながら、その直後にでも月は出ていないと告げる。理想と現実の落差を隠さずにさらけ出すことで、むしろ句は人間味を増し、私たちの心を揺さぶるのである。これは「余白の美」に頼る古典俳句とは異なる、むしろ「欠けたものを堂々と見せることで余情を生み出す」という現代的な表現態度だといえる。

 このように〈すすきです、ところで月が出ていない〉は、伝統的な自然詠の型を借りながら、その内部で大胆に崩しを加えることで、俳句に新たな息吹を吹き込んでいる。古典の美学に親しんだ読者には裏切りとして働き、現代的な感覚を持つ読者にはリアルな人間像の提示として響く。その両義性こそが、この句を強く印象づける最大の力なのである。


 〈草の実や女子とふつうに話せない〉この一句が立ち上がるとき、私たちはまず「草の実」という素朴で小さな自然物に目を向けることになる。草むらの中で服や手にまとわりつく、あの目立たないけれど確かに存在する草の実。そのささやかな季語が示すのは、野に生きる小さな命の印であり、どこか取り留めのない日常の一コマでもある。だがこの句では、そうした自然の細部が、いきなり人間の内面の痛切な吐露と結びつけられる。女子とふつうに話せないという率直な自己告白が続くことで、句全体は一気に青春の痛みそのものを抱え込むのだ。

 俳句の伝統において、恋や青春の悩みは多くの場合、比喩や暗示、余情に託されてきた。たとえば花に寄せて思いを隠す、あるいは雨や風を媒介に感情を滲ませるといった形で、直接的に言葉にするのを避けるのが美意識とされてきた。しかし、この一句はその慣習を潔く突き破る。「ふつうに話せない」と、まさに現代の若者が友人に打ち明けるかのような、会話そのままの言葉を持ち込んでしまうのである。そこにあるのは技巧を超えた率直さであり、作為を拒むがゆえのまぶしい誠実さである。

 この「ふつうに話せない」という表現に宿る切実さは、誰もが経験したであろう青春の不器用さを強く呼び起こす。クラスの女子に声をかけようとして、心臓が高鳴り、言葉が出てこない。日常的にはごく簡単なやり取りのはずなのに、当人にとっては大きな壁のように立ちはだかる。そうした思春期特有の照れや痛みが、この短い一句のなかに凝縮されているのだ。池田澄子が 「これ程に青春の姿を現す言葉は他にはない」と評したのも頷ける。なぜなら、ここには青春を美化したり文学的に装飾したりする余地がなく、ただ話せないという事実の苦しみと真実だけがあるからだ。

 さらに注目したいのは、この句に流れるさりげなさだ。「女子とふつうに話せない」と言い切ってしまえば深刻な悩みにも聞こえるが、それを支えるのが草の実という季語である。これにより句全体に軽やかさが漂う。草の実の小さな引っかかりは、青春の悩みの象徴のようにも見え、同時に日常の風景の一部にも過ぎない。重大でありながらも取るに足らないその二重性が、青春の悩みそのものを象徴しているかのようだ。

 ここで重要なのは、句が余情や暗示を超えることで逆に新しい余韻を生んでいる点である。従来の俳句の美学であれば、草の実と女子への思いを直接結びつけず、読者の想像にゆだねただろう。しかし、この一句ではためらいなく「話せない」と言い切る。ところがその直截さは、むしろ読む者の胸に鋭く突き刺さり、かつ懐かしさを呼び覚ます。誰しもがかつて経験した、言葉にできなかった気持ちのざらつきが、ここで一挙に可視化されるのだ。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉は、青春を象徴する一句として比類のない輝きを放つ。自然を媒介にしながらも、その核心は人間の未熟さと正直さにある。俳句という伝統の形式に「ふつうに」という日常語を持ち込み、まるで日記の一行のような素朴さで心情を刻む。そこにあるのは未熟さではなく、むしろ未熟さをさらけ出す勇気であり、文学としての新鮮な力なのだ。この一句を読むとき、私たちは自分自身の過去の不器用さや胸の痛みを思い出し、同時にそれを俳句というかたちで残してくれた作者に深い共感を覚える。まさにこの句は、青春そのものが持つ輝きと痛みを、これ以上なくシンプルな言葉で掴み取った稀有な一句であるといえるだろう。


 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉この一句は、従来の俳句の枠組みを軽やかに飛び越え、極めて挑戦的で刺激的である。まず目を引くのは、下五に置かれた「なう」という言葉だろう。これはSNS、とりわけX(旧Twitter)文化の中で広まり、ある出来事を「いま・現在・リアルタイム」で体験していることを表す俗語である。古典俳句の文脈において、このようなネットスラングが登場することなど、想像だにされなかった。しかしながら、ここにこそ句の核心があるのだ。

 俳句はそもそもいま・ここの瞬間を切り取る芸術である。十七音という器に、いかにしてこの瞬間の気配を閉じ込めるか。これこそが、俳句が古来より追い続けてきた本質的な問いであった。「なう」という言葉は、まさにその本質を現代語でストレートに言い表している。SNS的スラングと見なされるがゆえに軽んじられがちだが、その実は俳句が持つ瞬間性と強烈に共鳴する言葉なのである。この句は、その気づきを大胆に実践した試みといえる。

 さらに注目すべきは、「焼きそばのソースが濃くて」という上五中七の部分だ。祭りの屋台を思わせる匂いや味覚のリアルさが、句の世界を具体的に立ち上げている。濃いソースの香り、口の中に広がる甘辛さはまさに庶民的であり、煌びやかな「花火」とは対照的な日常性を帯びている。その対比が、いま・ここの生々しさをより強調しているのである。つまりこの句は、味覚と視覚を同時に提示し、さらにSNS的時間感覚を重ね合わせることで、きわめて現代的で多層的な瞬間を再現しているのだ。

 「花火なう」と言い切ることによって、句は従来の抒情的な余情を拒否しているように見える。しかし実際には、その直接さゆえに逆説的な余韻が生じている。花火という古典的な夏の季語に、現代のネットスラングを直結させる。その異質な組み合わせは、一読しただけで笑いや違和感を呼び起こすが、同時に、いま私たちが生きている時代の言葉で俳句をつくるとはどういうことかという根源的な問いを読者に突きつける。俳句は過去の形式をなぞるだけでなく、つねに「生きた言葉の実験場」であり得るのだということを、この句は強烈に示しているのである。

 また、この句には祭りの現場感が濃厚に漂っている。焼きそばを食べながら花火を見上げるという、誰もが経験したことのある夏祭りの一場面。その親しみやすい光景が「なう」という言葉によってSNS的な共有の感覚へと拡張される。いまこの瞬間、作者が体験している祭りの熱気が、読者にまでダイレクトに伝わってくる。つまり「なう」は単なる流行語ではなく、「共有されるいま」を提示する装置としても働いているのだ。

 結果として、〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉は、伝統と現代をつなぐ架け橋のような一句となっている。焼きそばや花火といった普遍的な題材に、現代的な表現を接ぎ木することで、俳句の根源である瞬間の切り取りを新たな形で提示している。これは単なる遊びではない。俳句が時代ごとに生きた言葉を取り込み、変化し続けてきた歴史を思えば、この句の試みはむしろ俳句の正統的な進化のひとつと言えるのだ。

 このようにして「焼きそばのソースが濃くて花火なう」は、ユーモラスでありながらも挑発的であり、伝統を壊すように見えて実は俳句の本質を鋭く突きとめている。私たちはこの一句を通じて、俳句という器の柔軟さ、そして現代語の可能性をあらためて実感させられるのである。


 1 『口語俳句』(1960) 著:市川一男 56-57頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 33頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 39頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 49頁より引用

 5 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 序より引用