【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2025年9月12日金曜日

英国Haiku便り[in Japan] (55)  小野裕三

ウェールズ人と語った俳句のこと

 前回のエッセイで紹介した、ウェールス人たちと日本で会った。彼らからは事前に資料のメールを受け取っていた。「エングリン〜ウェールズの俳句?」というのがメールのタイトルで、そのエングリン(englyn)という、ウェールズ発祥の短詩について解説が記されていた。

 十七音三行詩のhaikuに対し、十・六・七・七の計三十音の四行詩であるのがenglynのひとつの基本形だが、他の変型も多い。韻の踏み方が特徴的で、例えば、一行目の七、八もしくは九番めの音に後半三行の最後の音が韻を合わせるといった作りになっている。起源は中世に遡るが、現在でも脈々と作られているらしい。ウィキペディアから一句を拾う。

 おお父よ、私たちは幸せな家族として

 感謝をあらたにする

 なぜなら、あなたの手が日々

 私たちに支えと喜びをもたらすから

 以前の連載でリメリックというイングランド発祥の五行詩を紹介したが、印象はそれに近く、俳句では含みづらい起承転結も孕みうる長さだ。世界の各文化に短詩は種々あるのだろうが、俳句の明確な特徴は、どうやら起承転結を含みうる長さの限界を超えた短さにありそうだ。

 その一方で興味深いのは、俳句の起源が連歌の中の「発句」であること。それは大きな物語の開幕を告げるものでもあり、つまり俳句はそれ自体に起承転結を明示しない半面、その背後に大きな物語を暗示する。おそらくそれが俳句の特徴であり、かつ日本文化共通の特質かも知れない、と僕はそのメールに返信した。

 かくして来日した彼らに実際に会ったのは、三月末の週末。川崎市内の小さな神社の境内に、並んで座って話した。自然と俳句との繋がり、みたいな話をひとしきりした後で、あなた自身の一番の句を教えて、と言われる。わかりやすそうな句を選んで口にしてみたものの、句の中にある「切れ」の概念が理解されず、意外に伝わるのに難儀する。俳句を伝えるのは簡単じゃないなあ、と実感。

 それから僕は持参したあるものを彼らに見せた。僕が二十代の頃からずっと使っている歳時記だ。自然につながる俳句には季語が必要、ということは彼らにも事前に説明はしていたが、歳時記という俳句専用の分厚い辞書があり、そこには数千の季語が収録されている、というのは彼らもまさか想像していなかったらしく、興味津々で見ている。

「それ、めくってみてくれないかな? その様子を撮影するから」

 そう言われて歳時記をめくりつつ、少しばかり誇らしい気持ちになった。僕の俳句への愛は、歳時記が宿す、自然と文が織りなす壮大な小宇宙への愛に近しいかも知れない。そんなことを最後にそのウェールズ人たちには語ってみた。

 ※写真は2019年にWalesにて撮影

(『海原』2024年6月号より転載)