★―2橋閒石の句 4/眞矢ひろみ
階段が無くて海鼠の日暮れかな 「和栲」昭58年
閒石といえば、まずこの句を思い浮かべる人も多いはず。一方、鈴木六林男の出版直後の書評、また「和栲」を蛇笏賞とした選考委員4名(*1)の選評にも抄出されておらず、「和栲」が俳句愛好家の話題となる中で、徐々に注目を集めた句なのだろう。平易な言葉を用いて詩の重層性を強調した閒石らしく、読み手毎に句意が異なり、またそのことを読み手自身にも承知させるような句である。その昔、高校の現国授業で「読むとは、作者の意図や背景等とは関係なく、言葉のみから、作品が最も輝く解釈を発見して鑑賞すること」などと教わったが(*2)、そんなことは不可能と一読して途方に暮れるような句でもある。
その要因は明らかで、「階段が無い」「海鼠の日暮れ」の二フレーズを「て」で結ぶが、各フレーズの意味内容やフレーズを繋ぐ脈絡等が不明のまま、読み手の想像に丸投げされてしまうことにある。正木ゆう子は、二フレーズの間には深い切れがあるのに、「無い」「海鼠」の「な」音のリフレインと「て」の軽い接続によって、一句一章のような印象を読み手に与えていることを指摘する(*3)。
因みに、「和栲」において、同様の「て、して」を用いた句として、次のものが挙げられる。
茄子割れてなまものしりの日暮れたり
口下手にして河骨の曇るなり
男女七才にして冬の沼凪げり
「て、して」は、単独で順接、逆説、原因結果等の接続の意味合いを示すことはできず、読み手は前後の文脈から、海鼠句で言えば二フレーズ及び「階段」「海鼠」等の語彙から読み取らなければならない。時枝誠記の詞辞の論に拠ると(*4)、「階段」等の詞は客体を、「て」「かな」の辞は作者・詠み手の種々の立場を表し、両者が絡み合いつつ総体として表現を構成する。「日暮れかな」と強調・詠嘆して結ぶのに、「て」が単なる並列接続では居心地が悪く、読み手は二フレーズの脈絡を何とか見つけ出そうとする。逆説的に言えば、この脈絡が遠ければ遠いほど句の衝撃度は大きくなる。上記の三句についても、「て」+断定・強調の構造であり、一つの慣用の型のようにも見えてくる。各句とも面白み、不思議感を有するが、その背景には辞の機能をベースにした句の構造がある。
但し、海鼠句の異様さは三句に比べても際立つ。「階段」「無い」「海鼠」「日暮れ」という詞とその取合せの妙であろう。そもそも「階段が無い」という冒頭が唐突で、景の描写なのか、何らかの喩なのか戸惑うし、「て」の機能によって続くフレーズに「無い」の意味付けを期待させるが、これも又裏切られる。読み手が色々と思いを巡らせ、しっくりくる脈絡を掴めないまま放置すると、「海鼠」「日暮れ」等の詞に対する印象がそのまま句の読みに繋がってしまう。寂寥感、滑稽感、醜悪感といった鑑賞が出てくる所以だろう。重層性を純粋に追い求めて、色々な意味等が溶解した出汁を煮詰めた後に残ったような句であり、抽象と象徴の曖昧さ、その浮遊感を遊び楽しむことに意義があるのかもしれない。
以下は余談である。
海鼠句のように、読み手が脈絡と「て」の意味合いを読み取るような句を、僅かながらも手元にある句集や資料等に探ってみた。
顎老いてひとひらの杜若かな 永田耕衣 「冷位」昭50年
ひあたりの枯れて車をあやつる手 鴇田智哉 「凧と円柱」平26年
大根の咲いて半熟卵かな 山口昭男 「木簡」平29年
目に付いたのはこの程度で、意外と少ない。多くは動作・作用の推移や連続、原因・理由と結果、手段・方法と結果、時間の経過と結果等々を指す接続助詞として特定できるものが多い。抽出した上記三句にしても、単純な並列、動作等の推移、取合せの句としても読めるかもしれない。
また、「和栲」にしても「て」を使った句は他にも多くある。
眉上げて二月の幹を離れたり
肺透けてさわらび山の風明り
桜など描きて冬の寺襖
ただ、これらは「て」の繋ぐ前後のフレーズや詞に手掛かりがあり、関連性を読み取れるため、途方に暮れるようなことはない。
さらに脱線する。俳句を外国語に訳す場合、「て」のような辞・接続助詞をどう翻訳するのか。読み手の読みの内容に拠って機能そして訳語が変化するような辞の場合である。翻訳する言語に、同等の多義性を有する語彙はなかなか見つからないと想像できる。より一般化すれば、閒石の句ように重層性を含み、しかもそこに意義を有する俳句をどう訳すべきなのだろう。因みに、上記の耕衣句には次の訳が編訳としてある(*5)。
my aging chin
a single iris petal
*1 野澤節子、森澄雄、飯田龍太、沢木欣一
*2 当時話題となったロラン・バルト「作者の死」(昭42年)の影響と思われる。
*3 「橋閒石全句集」栞 沖積舎 平15年
*4 「日本文法」 時枝誠記 講談社学術文庫 令2年
*5 「この世のような夢 永田耕衣の世界」 鳴戸奈菜 満谷マーガレット(編訳) 透土社 平12年
●―15中尾寿美子の句/横井理恵(5)
媼いま桃のひとつを遡る 『老虎灘』
和辻哲郎の『風土』は、人間の存在契機を気候風土に見ようとする。また、存在論では、人間を社会的存在と個人的存在に二分して見ようとする。中尾寿美子を戦後俳句論の中で扱おうとする時最も困難を感じるのは、社会的存在としての寿美子をどう扱うかである。寿美子俳句の特徴は極めて個人的な「今・ここ」にある自分を詠むことにある。存在を育んだ風土や社会といった背景を探るのには不向きと言わざるを得ない。前回のテーマ「死」で時代としての死ではなく個人的な死を扱ったように、今回、寿美子の「風土」では、社会的風土ではなく極めて個人的に選び取った風土、即ち「精神の風土」を扱いたいと思う。
昭和五十二年、師、秋元不死男が没し、翌年「氷海」が終刊すると、寿美子は句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。この時寿美子は、永田耕衣の世界を自らの精神風土として選び取ったのである。
昭和六十二年に刊行された第五句集『老虎灘』のあとがきに、寿美子はこう書いている。
永田耕衣先生妙観のほとりを徘徊すること早くも七年、病弱に甘え不勉強に過ぎた日々を思えば野菊の道も薄氷の野も鯰の池もまだまだ遠く思われます。前句集「舞童台」は永年住みなれた古巣を去り、困難と知りつつ耕衣世界へ参入した変転の時期の整理でした。それより六年、今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいますが、生きて在るかぎりこの思いは消え去ることはないでしょう。この句集「老虎灘」は今日以後をなお歩まねばならぬ私の一里塚でもあります。
「野菊の道も薄氷の野も鯰の池も」と耕衣の作品世界をめざしながら、寿美子が巻頭に置いた句は、
夢の世やとりあへず桃一個置く
であった。「とりあへず」とは寿美子の途中感の現れであろうか。「困難と知りつつ」参入した「耕衣世界」とは
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣『驢鳴集』
泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 『悪霊』
白桃を今虚無が泣き滴れり
少年や六十年後の春の如し 『蘭位』
野菊道数個の我の別れ行く
薄氷と遊んで居れば肉体なる 『肉体』
等に代表される世界――永田耕衣が体現する精神風土としか言いようのない境地である。自ら師とすべきものとして選び取ったその境地に向き合い、挨拶を送りつつ、一方で、寿美子は自らの「今・ここ」のあり方を探っている。
粗玉のたましひ葱の匂ひせり
白桃にならんならんと鏡の間
天元に白桃ひとつ泛びゐる
「存在」を突き詰めようとする耕衣の精神風土に寄り添いながらも、寿美子の句はより感覚的である。
媼いま桃のひとつを遡る
あをぞらの何処かぬかるむ桃の傷
その感覚は単なる五感にとどまるものではない。精神としての個を保ちつつ、感覚の触手は世界に遍く行き渡っている。「桃のひとつを遡る」感覚と「あをぞらの何処かぬかるむ」という感覚とは、「今・ここ」の私と遥かなものとの交感をうたっている。
寿美子の句においては、今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、あらゆる感覚が世界に向かって開かれている。生きることの喜怒哀楽の全てを抱きとめる――対抗するのでもなくあきらめるのでもなく――それが寿美子の選び取った精神風土だったのだろう。
現代評論研究第1回~第3回に漏れている横井理恵氏の「中尾寿美子の句」鑑賞をまとめて紹介する。
●―15中尾寿美子の句/横井理恵(1)
肉体を水洗ひして芹になる (昭和六三年)
掲句は、中尾寿美子の没後に出された句集『新座』に収められている。「肉体を水洗いしたら芹になるだろう」と言っているのではない。本当に「水洗いして」いま正に「芹になる」瞬間が詠まれているのだ。言葉の上からそう読むべきであるだけでなく、寿美子の句集を順に追っていくと、芹になるに至る寿美子の姿が見えて来る。今ここにいる「わたくし」を突き詰めていって、寿美子が到達した一つの確かな存在感、それが、清々しい「芹」の姿だったのである。
上記は『天為』200号記念特集「検証・戦後俳句」もう一つの俳人の系譜(平成19年)に掲載された拙論「中尾寿美子論 ――わたくしを水洗いして―― 」の冒頭の一節である。掲句は、作者の寿美子が本当に自分自身をざぶざぶ洗って清々としている実感を詠んでいる。昭和五五年の句「はればれと水のむ吾れは芹の類」で予感していたが、やっぱり寿美子は芹だった。みごと芹になりおおせた寿美子の感覚が、読み手である私の体にも、すうっと染み通ってきた。
かつて、平成15年の天為150号記念シンポジウム―「不易流行」試論について―で、川本皓嗣氏はパネリストたちにこう問いかけた。
素直に今を生きている自分、それを詠むことが新しみを出すことだという(中略)―でも、そんなに素直に今を生きることはできますか。
川本氏は、俳句というものは伝統でがんじがらめになっているジャンルであり、自分というものの素直な流露を妨げるものの方が多いことを指摘した。そして、そこから解放される努力が必要だと説いたのである。
言葉にするという行為が生の実感から遠ざかる危険なものであることを、私たちは経験的に知っている。だからこそ、詩は短くあらざるをえないのだ。世界で一番短い詩、俳句は、説明せず、生きて今ここにあることの感覚をそのまま言葉に写し取ることができる。中尾寿美子の晩年の句は、感覚の素直な流露を体現している。その代表が、掲句である。
川本氏の問いかけに対し、今ならこう答えられる。
「晩年の寿美子は、それができましたよ。」
と。(その1 了)
●―15中尾寿美子の句/横井理恵(2)
傘寿とはそよそよと葉が付いている 『老虎灘』
句集名『老虎灘』は「ろおこたん」と読む。中国大連の景勝地として有名な地名(ピン音ではlǎohŭtān)である。実はこの地名は、寿美子にとって敗戦引き上げの苦難の記憶と結び付くものであったという。しかし、句集刊行の昭和62年にはすでに、懐かしい思い出として扱われている。苦しみも悩みも、年月に濾過されて、「ろおこたん」という、まろやかな音のみが、寿美子の中にこだましていたのである。
跋文は永田耕衣が書いている。
耕衣は、ウイリアム・ブレイクの詩の一節
あるべきさまにあるこそよけれ。
人が世にあるは歓喜よろこびと苦悩なやみのためなり。
をひき、「歓喜」と「苦悩」とは「一如」であり、人間不断に必須とする「自己救済」のエネルギイにほかならないとする。そして、掲句について、耕衣は、「そよそよ」という措辞を「謙虚な自祝」であると言う。
この「謙虚な自祝」に至るまでの寿美子には、「苦悩」と「自嘲」の句が少なくなかった。
鳥が逃げても飛べない女赤い芥子 (35年)『天沼』
めんどりが卵を置いて去る花野 ( 同 ) 同
白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ (42年)『狩立』
死なば樹にならんと思ふ朧の夜 (43年) 同
消えぬため笑ふ茫々菜種梅雨 (45年)『草の花』
三椏の花の無口は身にひびく (48年) 同
なんとも寂しい。「自嘲」と「苦悩」のためいきが読む者にも染みてくるようだ。特に、『草の花』には、ためいきの結晶のような句が目立つ。
その『草の花』刊行2年後の昭和52年7月、師、秋元不死男が没する。寿美子が病気の悪化に苦しんでいた時期でもあった。翌53年「氷海」が終刊し、「狩」同人となるが、その翌54年には辞し、不死男の年忌明けをもって、句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。同年10月には、「琴座」の同人となり、2年後の昭和56年8月には、第四句集『舞童台』が刊行されている。
このころから、寿美子の句は、苦悩を突き抜けたかに見える「さっぱりとした感じ」をまとい始める。病床を詠んでも、嘆くのではなくむしろそこに命のあることをかみしめているかのようであり、徐々に、寂しさを透視する勁さが備わってくる。
階段の途中にて寒明けにけり (53年)
眼の中も暮れてしまへば葱畑 (54年)
初夏やたたみ目のつく素魂など (55年)
そよそよと今日のところは野水仙 (56年)
とことんまで悩み、寂しさをかみしめ尽くしたからこそ、からりとした明るさが開けてきたのだろう。『舞童台』という句集には、そんな寿美子の羽化の跡を見ることができる。
傘寿とはそよそよと葉が付いている
かつては「今日のところは野水仙」と控えめすぎるほど控えめだった寿美子も、いつか大樹となって葉がそよぐ歓びをうたっている。(本人は決して大樹だなどとは言っていないのだが、読む者は、年輪を重ねた大樹がにこにこと風に吹かれているのを仰ぎ見る様を思い描く。)それでもまだあくまでも「そよそよ」というところが慎ましく、耕衣の言う「謙虚な自祝」のよろしさが好もしい。
こんなふうに年をとれたらいいなあと、心から寿ぎたくなるのである。
●―15中尾寿美子の句/横井理恵(3)
白髪の種花種に混ぜておく 『老虎灘』
「寿美子の句ってわからな~い」と言われた時に例として挙げられた句である。
「白髪の種って何?」「なんでそんなもの混ぜるの?」「何がしたいわけ?」というのが素直な反応なのだろう。この句を解説するためにはまず寿美子と白髪・もしくは寿美子と「白」との関係を解きほぐしておくことが必要と思われる。
かつて寿美子は句集に「白髪」という名をつけようとしたことがあったという。師の秋元不死男に反対され『狩立(かりたて)』となったこの句集には、白をモチーフとした句が目立つ。
白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ
白髪と見て秋風の嬲りもの
悲しみや声より白く日の落葉
ひぐらしや白ければ樺ゆれ易し
これらの句には、「白」を――直接的には「白髪」を「老い」の兆とみておそれる心理が反映されているだろう。
白地着ていましばらくを老いまじく
の句では、老いに立ち向かう「白」の心意気が見られる。寿美子の中では、「老い」と白とが対をなすもの、切り離せないものとなっていのだ。
一方には、直接「白」とは言わずに心象の白を詠んだ句がある。
三鬼亡し落花が見せぬ潦
蓬摘む洗ひ晒しの母の指
骨壺や風に日に世に簾して
ここに透けて見える「白」は、何かすがすがしく洗い晒したおももちがある。
寿美子は、自らの「白髪」におびえながらも、あえて句集名にと考えるほど、そこから気持ちをそらすことができずにいた。目をそらさずに見つめることで、「白」という色の奥底を見極めようとしていたのかもしれない。
次の句集『草の花』では、「白」はより寿美子に近くなり、「白髪」は寿美子の一部になりおおせている。
白髪は風棲みやすし初御空
影のなき一日白し鵙の声
白髪のしきりにさわぐ花野かな
晩年の思ひちらつく白桔梗
胸がざわつくような特別な思いを持って「白」を見つめるのではなく、もっと自然な構えで、寿美子は「白」に目をやっている。確かに「白」も「白髪」も老いと結び付いているけれど、さらにはその先の死にも結び付いてはいるけれど、でも、それが自然なのよね、という声が聞こえてきそうだ。
鶯やことりと吾れに老いの景
霞まんとしてむづかしや足二本
自らの「老い」を悲しまず、軽々と見て取るまなざしを、寿美子は獲得したのだろう。
そして掲句を納めた『老虎灘』のあとがきで寿美子はこう述べている。
今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいます(略)
混沌とした途中感の中にあって寿美子は「謙虚な自祝」のよろしさを抱いている。今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、軽やかな目を世界に向けている。
霞草わたくしの忌は晴れてゐよ
白髪の種花種に混ぜておく
「謙虚な自祝」の境地を開いた寿美子にとって、「霞草」も、やがて花咲く「白髪」も、未来を予祝する「白」なのだ。花種に混ぜておくのは、そんなささやかな予祝である。いつかだれかが驚くだろう、その顔を思い浮かべながらのいたずらであるかもしれない。
かつては恐れの象徴でもあった「白髪」の白も、晴々と来るべき日を予祝する色となり芽吹く日を待っている。これはそんな、老いを言祝ぐお茶目な句なのだ。