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2024年6月14日金曜日

高橋比呂子句集『風果』を読みたい

高橋比呂子『風果』

                              田中信克


 表紙にハイデルベルクの街の一隅が描かれている。教会の尖塔や石畳の路、その向こうに続く広場。中世から変わらぬ街のかたちと、その中で営まれてきた人間の生活や行動。それらを空が見つめ風が見つめ、そして時間が刻まれてゆく。高橋比呂子の第五句集『風果』は、そうした人間の歴史と現在とを世界的な視野に立って見つめ、その時々の感覚や認識の在り方を捉え直す形で表現した希少な句集である。

 まず全体の構成が面白い。「目次」にある章立てを見てみよう。句集は、「国境」、「敦煌」、「現象学」、「破墨」、「COVID-19」、「諸氏」、「くにうみ」という七つの章から成っている。前半二つの「国境」「敦煌」の章では、紀行諷詠のような形で、ユーラシアと中国、東アジアの歴史や文化、現在の社会が捉えられており、後ろの二章、「諸氏」「くにうみ」では、奈良探訪の思索吟に始まって、日本神話の様々なエピソードへと時間が遡ってゆく。その二つに挟まれる形で「現象学」、「破墨」、「COVID-19」の章が置かれるが、「現象学」では人間の感覚と認識の問題が考察され、「破墨」では水墨画や書芸術に眼を転じた形で、そのテーマが再考察される。「COVID-19」は、近年のコロナ流行下の社会現象を詠んだものだが、この『日本の現在』を挟む形で、世界史的な時間が辿られ、日本史的な時間が遡られてゆく。『風果』という句集名は、「旅をして感じた風土と、吹かれたその刻々の風との合成語」と「あとがき」にあるが、作品には「その刻々」における時間と空間、そこにおける人間の感情や思想、詠まれた対象や周囲のものとの関係性が、作者の感覚や経験などに照らされながら、「俳句という濾過器」を通じて提供されてゆく。暦年的に作品が整理される句集が多い中で、こうした鳥瞰的な視野に立って、時間と空間と認識を再考察するような構成の句集は珍しい。まずそのことを述べておきたい。

 もう一つ感じたのは、この句集が、ある意味でこの作家のこれまでの努力の集大成でもあるということである。高橋には、これまでに『アマラント』、『ふらくたる』、『風と楕円』、『つがるからつゆいり』の四句集があるが、その五十年以上におよぶ俳句創作の過程で、言葉や音律、象徴性や断絶性といった俳句の諸要素と、それらが齎す感覚や認識への影響といったものに真摯に向き合い様々に心を砕いてきた。「あとがき」にも言霊と深層心理への言及がある通り、その意識は強いものがある。言葉自体が持つ啓示的な意味。俳句全体が奏でる音韻やリズム。それらは脳や心理に作用しながら、読者の心の中に或る形像を立ち上がらせてゆく。そのプロセスについて作者は熱心に冷静に研究を続けてきた。この句集の作品の幾つかには、どこか阿部完市や加藤郁乎のテイストを感じるかもしれないが、作者には俳句における言葉と音と心理の関係を学ぶべく、それら先達作家達の作品を熱心に研究してきた経緯がある。特に「現象学」の章以降では、この「俳句の言霊性」に対する作者の思いが滲む作品が多い。その意味で、『風果』の『果』は、長年の試行の「結果」であるとともに、現在辿り着いた地点としての「果て」を示すものなのかもしれない。それでは章立てに従って詳細を見てゆこう。


 国境


 ヨーロッパの歴史と社会は実に多くの要素を含む。気候的にも民族的にも多様な要素が詰め込まれ、それらが個々の文化を形成しつつ、争ったり融合したりしながら「ユーラシア」という大きな流れを形成してきた。この章には、実際に作者が訪れた国々や場所における記憶、その歴史や風土への想いが俳句となって語られて行く。そしてその表現技法として、言葉の持つ象徴性や音韻、漢字や仮名(時には英文字やアラビア語表記)の「すがたかたち」、テンポやリズムといった実に多くの要素が試行的に活用されている。同時に作品には、映像絵画的な演出や、季節感、風土感による共感性の訴求といった、ある種伝統的な俳句の要素も活かされており、抒情詩としても格調の高いものに仕上がっている。全体としては、明るく、柔らかいトーンで落ち着いていて、紀行吟として読んでも気持ちの良い一章である。


さんたまりあのあのあたり国境           

数学の太古のゆめをいすらむの           

ミモザ咲くあんだるしあを弄ぶ           

にわとりにいちばんちかいぽるとがる        

風九月信者のように百塔あり            

ざくろからほどけてゆきしあんだるしあ       


 一句目。句集の冒頭句である。上五中七にA音とN音を重ねて伸びやかさを演出し、下五に二重のI音を置くことで音調を引き締めつつ、読者に「国境(くにざかい)」の持つ意味を静かに問いかける。その地点に有名なマリア像があるのかもしれないし、キリスト教文化と異文化の「境目」なのかもしれない。明るさと空間の拡がりの中に、隣接する社会の態様を冷静に見つめる視点が窺える。二句目、三句目は平仮名表記が面白い。「いすらむ」「あんだるしあ」と書くことで、片仮名での通常表記から想像する既存概念を排し、ちょっとお道化て見せつつ、発想の転換を促している。宗教や文化、地域の持つ特色と課題。そうしたものの実態の存在を仄めかしてもいるようだ。四句目には、かの郁乎の有名句を想い出す。「昼顔」と「鶏」。二つの言葉のイメージと、二つの俳句の世界に照らして、平仮名書きの「ぽるとがる」の持つ意味が再考察される。五、六句目は、九月の風、石榴という秋の景物を上品に描きつつ、これも信仰や地域事情の現在を静かに問う作品となっている。明るい陽射しや爽やかな風。秋の光が心地よい。こうした絵画的な演出を施しつつ、先述の様々な工夫や技法を凝らすことで、微笑みと謎掛けを同時に提示しているような姿が印象的である。

 またこの章では、有名画家や芸術思想の名を用いた作品も見受けられた。いかにも美術に造詣が深い作者ならではの作品である。


翡翠(かわせみ)をゴッホのゆめとおもいけり          

きゅぴずむの夏の舞いあり戦あり          

しゃがーるの牛頭ふるや星月夜           

尖塔と私伝ありて青滴らすや            

ロンドン橋おちて星ひとつ消え           

実南天みちかけみるみるゆうらしあ         


 一から三句目までに使われた画家名や美術スタイル。読者側にはそのイメージが鮮明に浮かび、俳句との距離がぐっと近くなる。ヨーロッパ文化が生んだ才能と業績。作品はそれらの「世界を借りる」形で、共感性ともに作品独自の新奇性を訴えてゆく。また四句目から六句目は、映像的な仕掛けが凝らされた作品である。「青」という色彩の持つ意味の問い掛け。ロンドンの街景と天体の消滅と言う壮大な構図の呈示。「み」音の畳みかけによる流動性と空間の拡がり。こうした演出効果にもまたこの作者独特のものがある。

 もうひとつ、この章について、次のような作品の存在を挙げておきたい。作者の歴史への想いが、現代の宗教や戦争、社会問題に通じる作品である。


波斯(ぺるしゃ)まで精神と言う糸はるか

水軍といるとびっきり蒼い日               

十字架もって花もって橋わたるよ             

ロカ岬自殺願望証明書                  

空爆ほどの橋かけてあります               


 西欧文化とイスラム文化との歴史的交雑。地中海やアドリア、イオニアなどの海を舞台に行われた幾多の戦い。アヴィニオン教皇庁の物語や、あの童謡のリズムとテンポ。歴史におけるの「橋」の意味。大陸の「最西端到達証明書」にふと重なる、精神と生活の限界状態。五句目などには、近年のロシア・ウクライナ紛争における橋の破壊行為が思い浮かぶ。こうして歴史と文化に想いを馳せつつ、現在の社会を重ねて考えることで、作品の思想が深まってゆく。その眼差しが、今度は東方に移遷して、次の「敦煌」の章が始まってゆく。

 

 敦煌


城壁は晩夏にこそわが唇                 

夜光杯みんなちりちりわかれゆく             

敦煌あめすこしさらに繭に                

玄奘の舌となりけり砂嵐                 

邯鄲の夢のひとつや驢馬の肉               


 前章ではユーラシアの西側に向いていた視線が、この章では東側に転じられ、主に中国の「西域」を舞台として展開されてゆく。玉門関を中華文化と異文化との境と見れば、作者はここにも、複数の文化の共通性と相違性や、そこに漂う「感覚の不思議」を見たのかもしれない。実に俳人らしい感性でもある。右例は、名所旧跡や故事によってよく知られた内容を背景にした作品であるが、何よりも「その地点と時刻、状況の現在」が捉えられているようで面白い。例えば一句目では、夏の陽射しを浴びた「城壁」の土や石の経時変化が目前に迫り、また壁の肌が残る水分の様が、「唇」という言葉によって実態的に示されているかのようだ。砂漠化や気候変動の影響がここにも及んでいるのだろうか。二句目の「夜光杯」は、王翰の「涼州詩」を背景とした作品である。「古来征戦 幾人か回る」。この句はウクライナ侵略以前の創作だと思われるが、徴兵され派兵されたロシアの若者達、ひいては満州や南方に駐留を命じられた戦前の日本兵、米国による「世界の警察」統治のことなどを考えると、いかにも「現在」の社会問題が滲んでいる。同様に三句目から五句目の作品にも、対象地域の『現在』が、或る課題感を持って抑えられている。敦煌の句には貿易問題が、流沙河の句には気候問題が、そして邯鄲の句には中国都市の現在の課題が映し出されているようだ。


駱駝ほとほと稜線あまりにも澄んで           

墓標立つゴビに鳥瞰こそよけれ             

夜間飛行平方根のごとねむる              

西夏まで幾千年の馬脚かな               

黄河鯉ならべ黄金ならべ食べ              


 前章で見たように、この章にも絵画的演出の効果が高い作品が多い。砂漠の「稜線」と「ほとほと」歩く「駱駝」隊の間の遠近感。広大な砂漠の鳥瞰と、眼下に点々と散らばる、黒く小さな「墓標」の数々。「夜間飛行」の句には同名のサンテグジュペリの小説を想い出す。乗数意外では少数が延々と続いてしまう平方根。その連続に眠さを感じるという発想が面白い。「馬脚」(の動き)の実像にふと重なる、千年の時間と都からの距離感。鯉も黄金も食べ尽くすような中国俗世のエネルギー。どの句も映像としての共感性が高い。それが実景であれ、心に映る像であれ、具象としての強みは、この句集の特徴の一つでもあろう。だがこの句集には、それとは逆の方向性、抽象性や深層心理的な感覚、あるいは概念性といったものが、もう一つのの大きなテーマとして展開されている。それが次章の『現象学』で示されてゆく。


 現象学


 現代俳句が現代思想の直接的な影響下にあった(一時期があった)とは思いづらい。何人かの著名俳人が著名な哲学論に興味を持っていたとか、幾つかの作品がその思想に触れた形で書かれているということはあっても(例えば記号論やロラン・バルトの著作などは、俳句の側から大いに参考にされたが)、或る俳人のグループが、或る思想を全面的に標榜して、その文芸的体現のために運動を展開したといったことはあまり聞かない。(私が寡聞にして知らないだけで、そのような動きが一部にはあったのかもしれないが、俳壇がまとまって或る種の思想を掲げて活動をしたとは思いづらい。)子規が『俳諧大要』の中で「俳句は終(つい)に何らの思想をも現はすに能(あた)はず(や)」と悩んでいるように、俳句と哲学の間にはある種の隔たりがあったようだ。だが同著が「縦(よ)し複雑なる者なりとも、その中より最(もっとも)文学的俳句的なる一要素を抜き取りて」という可能性を示すように、俳句の短さは、ちょうど禅の言葉のように、深遠な思想を一語で言い切るインパクトを持つ。また人間の感覚・知覚と認識の間の相互作用を考えるにあたっては、両者には関係性の深いものがあると思われる。私は特に、現象学と言語学との関係が再考察されるべきものだと考えている。個別具体的な影響と言うわけではなく、この二つの潮流が二十世紀の社会に与えた影響の下に、現代俳句も位置しており、間接的な(しかしながら重要な)影響を受けていると思うのである。金子兜太の『造型論』における認識作用も、阿部完市の深層意識も、永田耕衣などにおける意識の感得の方法も、これらの思想と無縁だとは言い切れない。フッサールの「ノエシス・ノエマ」も、ソシュールの「価値の体系」も、現代俳句の構造と相通じるところがある。またそれに続く実存の概念やメルロポンティの知覚の現象学といった思想も、当時の社会に影響を及ぼす形で、俳句にも影響を与え続けたと言えるのではないか。その意味で今回、作者が句集の中に『現象学』という章を設け、それをセンターに据えていることは意義深いことだと思うのだ。それでは個々の作品を見てゆこう。


波紋あざやかなりめぐりてかきつばた             

いそいですぎないと錯覚となる夏館              

7月のマトリックスよ沈没船                 

燕とぶには昼月がしろすぎる                 

脳の重さにほうたる点滅していたり              


 まず『現象学』と銘打つように、視覚と認識の作用に関する作品が印象的である。一句目。燕子花の群生を巡る時、一つ一つの花の鮮やかな色彩と、花弁の襞に宿る柔らかな光とが、同時に網膜に映し出され、それがやがて、波が照り返す光の煌めきのように見えてくる。光の干渉縞に近いイメージでもあろうか。ホログラムの制作過程で、左右の違う角度からの異なる映像が一つに重ねられ、そこに立体画像が立ち現れるように、一つの現象から感じられる複数の感覚が、脳内で昇華されて別の(より高度な)知覚となる。そしてそれが自己との関係性の中で認識として定着してゆく。この句には、そうした一連のプロセスが映し出されているようだ。二句目は夏館を詠んだ句だが、視覚に映った映像が、建築物の実態的な姿なのか、それとも脳内に感得された錯覚なのか、異なる二つの像の間で作者の判断が揺れている。しかも「急いで過ぎないと」と言うように、時間とともに現物がどんどん錯覚化するというのである。ここにも実際に感受したものが、脳内で知覚、認識されてゆく過程が描かれている。三句目では、読者にはまず「沈没船」のイメージが浮かぶ。船という大きな塊が、幾重にも重なる水の層の中に青く沈んでいる。上空から光が差し込み、それらの層に様々に屈折してゆらゆらと歪む世界。それを見つめていると。やがてそこに何かの法則のようなものが感じられてくる。光や水の色、明るさや暗さ、深さや位置など、それらをパラメタとした、いわば行列のようなもの。それらの要素や条件に囲まれて「沈没船=自己の現在」の姿が探られてゆく。この過程もいかにも現象学的だと言えようか。四句目、五句目に描かれた視覚と意識の間にも同様のことが指摘できよう。


カノンそのかのまなざしに秋の蛇           

言の葉も蛍も死にいそぐらむ             

花野からくる美しき傀儡かな             

円周率からほどけてゆきぬかぜの秋          

轡虫しずかといえるしずかなり            

脱兎のごとし歳旦といえり              

草石蚕またたましいである田いちまい         


 さらに進んで、右のような句例からは、感得された現象が、人間にとっての普遍的なもの、あるいは意味性に結びついてゆくプロセスを感じる。どの句にも「生」や「死」の在り方が静かに語られているようだ。「まなざし」に宿る様々な現象。それを取り巻く光や風、時間の中で、存在と霊の在り方が探られてゆく。「死にいそぐ」、「美しき」、「円周率」、「しずか」、「歳旦」、「たましい」といった言葉は、みなその帰結点を暗示しているようにも感じられる。存在が変化を重ねてそこに至る時間。ハイデガーではないが、たしかに『現象学』から『実存主義』へといった感がある。ここにもこの章題の持つ確かな意味があるように思えてならない。


破墨 および COVID-19


 先述したように『破墨』の章は、前章の『現象学』における視点を水墨画にテーマを移した形で再確認しているように思える。また『COVID-19』にはコロナ禍を一つの機会として、日本の現在の社会を見つめ直そうとの意思が窺える。ここでは印象深かった作品を挙げるにとどめたいが、まず『破墨』から見てゆこう。


破墨とは眦あつき下弦の月               

海(み)松(る)色(いろ)に海暮れゆけり円月島              

日輪まわしてあすもくるよみそさざい          

神経科の幻月というメロンかな             

すたすたとくるぶしとおく紙つぶて           

  

 「破墨」とは水墨画の技法で、淡い墨で描かれた画面に、さらに濃淡の墨を加えて、その調和を破り、また再び整えることだそうである。『現象学』で見たように、人間は感覚によって外部の対象や現象の様々な要素をキャッチし、それを脳で知覚として整理した上で、自己に関わる認識として捉えなおす。その過程はこの『破墨』という技法にも通じるところがある。そのことはここに挙げた作品を通してもよく分かると思う。また、この章は画や書にテーマを置いただけだけあって、思索的であった前章の作品よりも、映像的で情趣性の高い作品が多い。一つ一つの句が描く調和と破調。その中にしみじみとした旋律が感じられる。


もっともくるしいひといて薔薇星雲 

人を避けコロナを避けて桜蘂

こんぷらいあんす巣ごもりもこすもすも 

雪いろのからだつかれて過ぎて浪費


 「COVID-19」の章はテーマの性格からも時事的な作品が多い。またそれゆえ共感性の高い作品が多くなる。コンテンポラリー性は「俳」が持つ大事な要素の一つでもあると思う。「現在」をどう捉えるか。同時代に生きる人間達の共感性と、時代を越えた普遍性をどう考えるか。そのことについては、ここでの言及は控えるが、もっと議論されてもよいと思っている。右のような作品からはそのことを強く感じた。


 諸氏


 さて、句集も後段に入り、この章からは日本の古代がひとつのテーマとなってゆく。奈良探訪時の思索的な作品から始まって、最終章ではさらに遡り、神話の時代に立ち返って、人間の行動と言葉や音の関係が探られてゆく。


廬舎那仏闇は闇にて発光す

いかるがのうまやのみこのぬばたまの

いそいですぎないといかるがのきげんです

萩のみち爪染めて尼寺へゆく

秋扇ひらけば灯る銀河系   

冬鳶何という橋わたるのか  

踊り場に光ある日栗の花散る   

天窓のロートレアモンいきしちに  

青い釦の諸氏すぎて夏至


 東大寺大仏殿や法隆寺夢殿。古寺や旧跡を辿りつつ、「いにしへ」が現在に重ねられてゆく。抒情性の高い、穏やかな作品が多いが、「いかるがのきげん」や「ロートレアモン」の句のように、愛嬌のある不思議さがアクセントとなっている作品も魅力的である。全体的にはゆるやかに、ノスタルジックな味わいも加えつつ流れてゆく。最後の句などは、「青い釦」の男性達とすれ違った時の嘱目吟であろうが、あたかも彼らが、百官が揃う古代の儀式に出向くために歩んでゆくような錯覚を覚える。こうしたイメージの交錯が面白い。また、この章では特に、全体的な音のやわらかさや、光や空気の感覚と言ったものの表現方法に興味を感じた。例えば。八句目の「踊り場に」の句には、ふと摂津幸彦の「階段を濡らして昼がきてゐたり」が想われたし、二句目、三句目、そして八句目の平仮名表記には、会津八一の「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」などを想い出していた。仮名と音の効果は次章のテーマだが、この章はその序奏としての役割も果たしているのかもしれない。


  くにうみ


 最後の章となる。ここでは敢えて句の評釈は止めておく。この章は、ある意味で章全体がひとつの作品となっていて、その全体を感じることに意味があると思うからである。ただ次のような作品を挙げて、全体の雰囲気を感じて頂けたらと思う。


 あめのぬこぼこをろこをろとおのごろじま

 ほとやかれかむさりてよもつひらさか

 あをひとくさちがしらくびりちいほのうぶや

 みめよりのあまてらすうくみくらたな

 ひぜめかなうちはほらほらとはすぶすぶ

 ひきりのうすきねほんだはらすずきたてまつり

 なかつくにかむぬなかはみみすぶかづらき


 作品の一つ一つは、古事記をはじめとした神話を着想としており、それらをかなり忠実になぞっている。従ってそれらにたいする知識があれば解釈不要な作品が多い。むしろ注目したいのは、この章では、八百万の神々の物語が、平仮名の連なりの形状と、それらの示す連続音、旋律としての効果を用いて再構成されているということである。確かに右のような作品の塊を見れば、祝詞を聴く時のような、神々=自然の世界と一体になってゆくような感がある。そうした試みを通じて、作者は次の二つのことを目論んでいると思われる。ひとつは産土やアニミズムという世界に立ち返って、知覚や精神というものを捉え直すということ。もうひとつは、言霊や自然音の世界を見つめ直して、再度、俳句や和歌と言った日本の詩の在り方を考えるということである。こうした試みは、高柳重信の多行書き詩や、金子兜太の「おおかみ」など、現代俳句の金字塔と言われる先達の探求姿勢にも通じるものがある。また、このことは、西洋東洋を問わず、古代歌謡から近現代の思想に共通する意義を持つことなのかもしれない。今回の句集では、『現象学』などの先行する章で、これらの問題を別の視点から提起してきた。それに対する一つの解答を、この「くにうみ」の章は呈示しているのかもしれない。


 以上、八千字を越える句集評になってしまって申し訳ない。が、今回の『風果』は実に様々なことを考えさせてくれる句集だった。今後の世界では今まで以上に、多様性に対する理解と包摂的な調和が必要となる。そうした中、この句集に溢れる諸現象に対する多面的な捉え方と、鳥瞰的・歴史的・空間的視野の構え方は改めて注目されてよいと思う。そのことに付言して、この評を終えたい。ここまで読んで頂いた読者諸賢に敬意を表しつつ、筆を置くことにする。