木の息
ソーセージとフリルレタスと冬の灯と
冬天や木の下に木の息を聞き
大根の三浦を歩きたき日和
犬の目に馬馬の目に冬の雲
木の瘤に梅の木苔に冬日差
・・・
故人となられたが酒井和子さんに
大根の三浦を歩き年惜しむ 和子
という句がある。平成14年発行の『海燕』(ふらんす堂)に収められている。その句に出会って以来、三浦の大根畑、掛大根を見たいと思うようになった。お会いした時にそのことを話したこともあった。過去に一度だけ三浦を通ったことがあるが、その時に見たのは一面のキャベツ畑であった。夕方だっただろうか。行き合わせたのが丁度灌水の時間だったから、スプリンクラーがあちこちで作動していた。その景色も忘れ難い。
以前の住まいの近くに禅寺があった。大きな銀杏の木があって、晩秋から初冬にかけて、この銀杏の枝に大根が掛けられるのである。沢山の大根を干すのだから寺の人たちが総出で、賑やかに手際よく枝に掛けていくのであった。真白な大根が乾いて色も形も干大根へと変ってゆく、その変化も面白かった。
家庭の漬物用とは規模が違うのであるから見応えもあった。
今でもあの掛大根を見られるのだろうか。
柿といはず桜といはず大根干す 山本洋子
話は違うが『露伴の俳話』(講談社学術文庫)という小さな本がある。私が最近手に入れたのは1993年発行、第6刷の物である。この本のことは友人のエッセイで知った。
著者高木卓氏は幸田露伴の甥にあたる。この高木氏のメモというかノートというか、記憶をもとにしての記録である。
露伴が親戚の老若男女の数名を相手に発句や連句の会を開いていたという昭和15年~17年にかけての座の記録が中心だが、親戚ばかりというそんな気安さもあってか、本筋を離れた雑話も多く、面白くもあり、今聞いても納得のゆくことばかり。まだ拾い読みしかしていないが、これはじっくり読んでみようと思っている。
こんなことも書いてあった。
「墨をするにアまず滴をたらし、すっては水をくわえていくので、水のほうをこきだすのはいけねえ。いい墨は、おのずから平らにすれるもので、小さくなったとき他の墨とすり口をあわせるとちゃんとつく。又いい硯は、いま洗ってきた手をこすっても、指がすれてしまうものだ。ただつるつるしているだけが能じゃアねえ」
まあ! そうなのですか! であった。
まず海へ水を注いで、と親にも教師にも教わってきたし、授業以外にはきちんと書道を教わることもなく我流のままで通してきた私であるから。
そんなことから思い出したのが小学時代に同級生だった腕白坊主。こぼれんばかりに水を満たし、ずっと墨をすっていた。「G君、書かないと時間がなくなるよ」と先生に言われても「まだ薄い~」と、墨をすり続けていた。習字が嫌いでぐずぐずしていたことはみんな知っていたのだけれど。
「秋の雲はたかく、春の雲はひくい。夏の雲はかがやき、冬の雲は黒い。」これも露伴の言葉の中にあったこと。誰でもが知っていることだけれど、ふっと抜けてしまうことがある。年々抜けていくことが増えるのが何とも頼りない。
墨汁で間に合わすような生活もきっとよくないのだ。
(2023・12)
※本号は編集部の都合により、1回順送りとなっています。ふけさんにはご迷惑をおかけしました。