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2023年8月25日金曜日

関東大震災100年に思う  筑紫磐井

 大正12年(1923年)9月1日に関東大地震が発生した。

 この直後、俳句雑誌ホトトギスも特集を組んでいるが、それは写生文特集であって、俳句については発表されていない。この理由を虚子自ら語っているが、いかにも虚子らしい発言である。


  「此間一寸京都へ行つた時、新聞記者が尋ねて来て、千載一遇の大地震に御逢ひでして、定めて名句が出来ましたらう。と言つた時、私は変な感じがした。第一地震が俳句になるか知らん、と考へた。今迄俳句を考へたこともなかつたが、改めて考へてみてもどうも俳句になりさうに思へなかつた。あの殺風景な大破壊、少しも趣味のない、どこをどう考へても俳句にはなりさうもなかつた。・・・併し、此間出逢つたやうなあの破壊力の強い地震、あんな地震になると短い俳句で何が描かれやう、何が歌へやう、全く殺風景といふ一語に尽きるやうに思ふ。さういふ場合に名句を作るといふやうな芸当は私にはできない。由来大事の場合に句を作るとか歌を読むとかすることはよい加減のものでめ(「あ」の間違い)る。其は俗間に喧喧するには足りやうが、実際碌なものが出来る気づかひはない。「いいへ、句なんか出来ません。」と答へたところが、其記者は物足りなささうな顔をして居つた。新聞記者としては物足りなく感ずるのは尤もである。是非一句名句らしきものを吐いて世間をやんやと喝采せしむべきであつたらう。」


 俳句では地震を詠むべきではないといっているのである。俳句は詩趣を詠むのであって、事実を詠むものではないと述べている。しかしこれには続きがある。


 「余談は扨置き、其は俳句についていふことで、文章は又別である。土地の震動、家屋の倒壊、大火災、其間を逃れ出でんともがく人間の焦燥狂態其等を描き出すことは文章の擅場であつて、所謂千載の一隅に際会して、何ぞ椽大の筆を振はざるである。写生文家が平生練り来つた写生の伎倆は斯ういふ時にこそ役に立つべきである。かゝる意味で、少々世間の雑誌の震災記事が鼻につき加減であるに拘らず、敢て本誌にも数篇を採録した所以である。尚ほ次号にも普羅句君のをはじめ秀でたものがあれば之を載せ度いと思ふ。」


 虚子自身、その主張通り地震に関する俳句は作っていない。ホトトギスにおける地震に関する俳句の記録は二つしかない。一つは一〇月十四日に開かれたホトトギスの臨時句会である。「秋晴れ」「秋日和」の題で、震災の句も出されているがおよそ緊迫感のない句ばかりである。

 これに対して、永田青嵐が特別作品を発表しており、地震そのものを興味の対象として詠んだもので「震災俳句」と言うにふさわしい。ホトトギス句会の句と比較しても切迫感が表れているので抄録して示す。なぜ青嵐が震災俳句を読んだかと言えば、実は彼は公選の東京市長であり、震災復旧の陣頭指揮をしていたからである。


[ホトトギス大正十三年二月「震災雑詠」より]

    避難者市役所内に充満す。妊婦数名有り。

  市役所の庭に産まれぬ露の秋

    水道の水絶えて避難者皆梨を喰ひて渇を医す。

  梨齧り乍ら生死の巷行く

    市役所の庭にテントを張りて事務を執る。

  秋雨やテントの中の松の幹

    市中を巡視す。

  秋風や家焼けたるに閉す門

    浅草寺

  天の川の下に残れる一寺かな

    本所被服廠の死者三万七千余に及ぶ。

  秋風や顔を背けて人不言

  屍焼く煙や秋の江を隔つ

    馬場先門内

  バラックに人生きて居る野分かな

    江東二区は行衛不明の人多し。

  焼け死にし児とは思へど月の雲

    迷子収容所

  残る児に連れ帰る児に秋の風

    災後人心荒ぶ

  秋の風互に人を怖れけり

  明月に激せる人の瞳かな

   罹災者は多く山の手又は郡部に避難し或は故国に帰る。

  子を連れて寄食する家の柿赤し

    災後失職者多し。

  秋風に人夫の顔の白さかな

    震災を怖れて庭に寝る家多し。

  庭に寝て月孕む雲怖ろしき

  蚊帳釣りて余震侮る女かな

    市中雑観

  行秋や止まりし儘の屋根時計


 ここで内幕話をしておきたい。何故青嵐の連作だけが掲載を許されたのであろう。実この時同時掲載された「震災雑録」に秘密がある。おそらく虚子は、「震災雑詠」に写生文を加えて「震災雑録」とすることをもって青嵐の句の掲載の条件としたのではなかろうか。虚子は、俳句を掲載したのではなく、写生文「震災雑録」を掲載したという整理がついたのであろう。時の東京市長永田青嵐だといって虚子は媚びるようなことはしない。自分の論理を最大限に尊重したのである。

「震災雑録」の一部を抜粋しよう。


[ホトトギス大正十三年二月「震災雑録」(八)]

 江東二区は行衛不明の人が頗る多い、一家族全滅したと思はるゝのも亦少なく無い、山の手の家は倒れ無いのが仕合せ、下町の家は焼け無いのが仕合せ、江東の家は死なないのが仕合せと云はれて居た、其生き残つた人々が毎日幾十組とも無く被服廠跡に来て親や子供の屍体を捜がして居たが黒焦となつた屍は全く何人とも見分けが付かぬ、偶には入歯の様子を見て親だとか子だとか云つて推定するのもあつた、大概一週間も捜がして見て見当らなければ仕方なくあきらめて仕舞つた、燐火深更に焚えて鬼哭啾々、雨の晨月の夕、彷彿として枕頭に立つは誰そ。

  焼け死にし児とは思へど月の雲


[同(十九)]

 人間と云ふ者は非常の時に遇へば極端なる善悪の両面を遺憾なく発揮するものである。人類相愛の至情が極めて美くしく発露するかと見れば更に我利憎悪の醜き方面も亦遠慮なく暴露される。十七世紀の倫敦の大火にも仏人放火の流言があつた、今度も亦鮮人放火の蜚語が伝はつた、浅猿しいものは人間である、人間は到底神様が無くては生きて行かれない。

  秋の風互に人を怖れけり

  明月に激せる人の瞳かな


 読み応えのあるルポルタージュとなっている。


(震災直後の写真を100年ぶりに我が家で見つけたので添付しておきます。当時震災基金募集のため新聞社などが中心となりこうした写真を頒布したもののようです。特に地方からの寄付に期待したようで、生な写真が効果的であったようです。

 祖父の勤めていた日本橋の呉服店では店内で注文を取り写真館が届けたと記録にあります。頒価は1円20銭でした。その呉服店は焼けずに商売を続けたようですが、震災後の不況でしばらくして潰れたようです。)

銀座通り

東京駅付近

小川町

人形町通り

茅場町より日本橋

上野駅

愛宕山か?