有紀子さんとは鎌倉で句座を共にしている。参加者の一人に料理人がおり、俳句弁当なる季語にもなっている旬の野菜をふんだんに取り入れたお手製弁当をつつきながら和やかに行っている会なのだが、フランクな歓談の席でも有紀子さんは所作や言動に綻びがない。端然としてクールだ。いつ何時でもきちんとしている。そのような印象がある。
つばめつばめ駅舎に海の色曳いて
炎昼をぱたりと打つて象の耳
我が手相かくも複雑春の風邪
手の中の切符小さし冬の虹
喉仏尖らせて飲む寒の水
きちんと、は句風にも表れている。題材の把握、季語の選択、定型への仕立てに隙がない。処理が的確だ。
「つばめつばめ」は、京浜急行の逗子・葉山駅を連想する。海岸に近いほうの南口駅舎は湘南電気鉄道時代の駅を模した造りでレトロな趣きがある。「海の色曳いて」の修辞は実に秀逸。「炎昼の」動物園のもの憂さも目に浮かぶ。「我が手相」のアンニュイを季語「春の風邪」でしっかりおさえ、「手の中の切符」は季語「冬の虹」で旅情をさそう。「喉仏尖らせて」は「海の色曳いて」同様あざやかなレトリックである。
待春やアンモナイトの奥の闇
風光る埴輪の膝の五弦琴
銀漢や鼻梁の長き伎楽面
冬の鋭角黒曜石の大鏃
春星や王の木乃伊を抱く谷
古今東西の文化財が詠み込まれているのが本句集の特色といえる。さながら博物館のようである。アンモナイトの凹凸をいとおしむようになぞる姿がイメージされる。句集を繰るごとに名品・至宝を惜しみなく見せてくれる。引用句のほかにも、ニケの像、フェルメールの名画、侍女俑、円空作と思われる木端仏などなど、ミイラもあるし、トーハクの東洋館さながらの絢爛さだ。
私が所属する結社の句会では、美術館や博物館での見聞を詠んだ句に対して、屋内での出来事なので季語と結びつけるのが難しいと主宰から言われることが多いのだが、作者の句は季語選びが周到できちんとしているため、全く気にならない。
作者は二〇二〇年第四回俳人協会新鋭俳句賞を受賞、そして二〇二二年には第九回俳人協会新鋭評論賞、二〇二三年には第三十七回俳壇賞を続けて受賞し、めざましい成果を見せている。「Ⅳ 師のなき椅子」の章に新鋭俳句賞受賞作「蟻眠る」からの句が収められており、本句集のハイライトだろう。
朝焼や桶の底打つ山羊の乳
蟻塚の奥千万の蟻眠る
早朝の小屋に響く乳搾りのはじめの一打! ここには作者のきちんとの向こうにあるパッションが感じられる。定型に充填された作者のエモーションが読者の内で炸裂する。「蟻塚」に眠る千万もの蟻の群れもふつふつとたぎるパッションの予感だろう。
メデューサの憤怒のごとく髪洗ふ
己が手を描くデッサン秋日濃し
降誕祭十指を立てて麵麭を割る
はつなつの帆船白のほか知らず
これらの句にも作者の激情を感じる。「メデューサの憤怒」はまさに感情が噴出しているが、「己が手」を素描する姿にも秘めたる情熱がある。「降誕祭」の中七「十指を立てて」はこれまた卓抜な表現だが、高い精神性を思わせる。帆船が「白のほか知らず」出帆していく、前途への明るき情調だ。
新鋭俳句賞受賞作「蟻眠る」を知りあう前に私は読んでおり、自身のノートを見返すと、感じ入った句を抜き書きしている。そのときは背中が遠い存在だと思っていた。今では句座を共にしているとは不思議なものだ。ましてや句集の鑑賞文を書いているとは。最近は有紀子さんのきちんとオーラに気圧されることなく軽口を叩ける間柄になってきた(気がする)。メデューサの怒りではなく俳句へのパッションを引き出せる俳句仲間でありたい。
第一句集の上梓おめでとうございます!
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鈴木崇
1977年生まれ。神奈川県横須賀市出身。「鴻」同人。