【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2023年3月10日金曜日

句集歌集逍遙 秦夕美句集『雲』/佐藤りえ

秦夕美句集『雲』は作者の最後の句集となった。
本編に入る前に、その一冊前の句集にあたる『金の輪』の話をしよう。

『金の輪』は2022年1月に刊行された秦夕美の第十八句集。題『金の輪』は小川未明の短編から採られたことがあとがきに記されている。長患いから回復した太郎は、金の輪をころがして遊ぶ少年を見かける。その見知らぬ少年に惹かれ、ついに夢の中で一緒に輪転がしに興じる。それから数日後、太郎は七歳で亡くなってしまう。小川未明自身が長男を六歳で失ったことが投影された話であるが、句集『金の輪』も死を色濃く意識した一冊である。

わが死にどころあぢさゐのうすみどり『金の輪』

八月や息するうちを人といふ

木蓮や死装束のとゝのはず

死神の片足ふるゝ雛の家

忌明けてふ風の吹くなり萩桔梗

急逝の小鳥はつかにかわく土

またの世をゆあーんゆあんと雪の橋

己の死に場所を俯瞰しているかのような一句目、呼吸の有無が人とそれ以外を分ける、端的な二項対立としてみせた二句目など、死をタナトスとしてあがめるでもなく、達観したかのようにふるまうでもなく、しかしその気配を確かに感じ取った作品が並ぶ。

こうした直接「死」につながる語彙をもちいた句のみならず、句集全体が死を彩るかのような、いわば最後の祭りめいた作りになっている。単独の句集としてはかなり異例と思われる初句索引と季語索引が巻末に付されている。

その一方、こんな作品も収録されている。

金の輪をくゞる柩や星涼し

薔薇に雨とても死ぬとはおもへない

胎内や渦まき昏るゝ飛花落花

「私何だか死なないような気がするんですよ」は宇野千代の言葉であるが、秦夕美の作品からもいくらかそうした超越的な気配を感じる。句集題『金の輪』を詠み込んだ一句目の柩に悲壮感は見られない。三句目は句集掉尾の一句で、胎内に花吹雪を撒き散らして舞台は暗転する。永劫回帰を象徴するかのような結末である。あとがきは「お世話になった皆さんありがとう」で結ばれ、作者はこの時、本当にこれが最後の句集と思い切っていたのであろう。

その半年後、2022年7月に個人誌「GA」89号が発行された。22×10センチほどの縦長のこの冊子は俳句作品・短歌作品・エッセイが収録されており、ラベル印刷、切手貼りなどにお孫さんの手を借りつつ、年2回こつこつと続けられていた。その最新号のあとがきを読んで筆者は驚いた。さらに句集を出すというのである。作者曰く「漢字一字の句集は持っていない」ので、『雲』という題の本を作ることにしたとのこと。驚きつつ楽しみにしていたこの句集が、まさか作者の訃報の後に届くことになるとは、思ってもいなかった。

句集『雲』は「蒼い雪」「白い月」「赫い花」の三章からなる。雪月花とトリコローレのかけあわせ。『金の輪』で死の討議を経た後、ふっきれたということでもないとは思うが、自在な句が繰り出される。

熟田津は月待つ汝は我待つか

雲呑を落すでもなく秋の川

贅沢は素敵戦後の秋は好き

白露かな土偶の一重瞼かな

魔王よぶあつけらかんと雪がふる

一句目は万葉集の額田王の歌「熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」から。歌には人々が満ち潮を待つ情景が詠まれているが、句のほうでは土地そのものが月を待ち、「汝」が「我」のことを待っている。対比構造を取ることで、「汝」が「我」を待ちかねているさまがより強調されてみえるが、果たして「汝」とは誰のことなのか。
二句目、三句目は攝津幸彦へのオマージュだろうか。「雲呑は桜の空から来るのであらう」「幾千代も散るは美し明日は三越」が浮かぶ。「贅沢は素敵」が「贅沢は敵だ」を換骨奪胎したフレーズで、脚韻でみちびき出された下の句へと繋がるさまが三越の句を思わせた。

八十島に防空壕の残る秋

余寒なほキーウに杖の影いくつ

昏れゆくやミッドウェーの春の潮

惜春のイラクねむたし星を抱く

戦後なり蜘蛛の囲ゆれてゐるばかり

日の本の雨の桜と赤紙と

日を招きかへす扇か戦時中

零戦の破片とおもふ月日貝

『雲』には戦争にまつわる句が夥しく収録されている。『金の輪』にもいくつかそうした句が見られるが、『雲』にはより明確に、戦争を題材とした句が並ぶ。自身が体験した第二次世界大戦のことだけでなく、二句目・四句目のように、現在進行形の戦闘地域も詠みこまれている。戦後七十有余年、平和などとは寝言であり、蜘蛛の囲のごとくぶらぶらゆれているのが現状だと、作者は暗に言っているのかもしれない。「招きかへす扇」は三橋敏雄「戦争と畳の上の団扇かな」をふまえてのことだろうか。

最後と覚悟した18冊目の句集を経て、いわばカーテンコールの句集を編むとした時、積み残し、ではないが、記しておかねばならぬ、と思ったであろう題材が、戦争だったことが、意外でありつつ、作者の原形質の一端だったのかと、感じ入るところがあった。これも美意識の一端であろうか、直接的に声高に叫ぶのではない、嫌戰が見える。

うるはしく老婆となりぬ七日粥

老いて買ふ夢と台湾バナナかな

背負投げしたき病や諸葛菜

自身の生老病死を率直なかたちであらわすことは作者の美意識からは避けるべきことと感じていたが、集中にはこんな句もあった。表現としてはナマなものとは言いがたいが、さっと差し出される「老い」と「病」の文字は、しかし機知で彩られ、愚痴めいたところがまるでない。なお「GA」89号によると、昨年(2022年)作者は階段から転落し、全治三ヶ月の裂傷を負っている。読み手の側として、旺盛な創作意欲から超人的な体力の持ち主と勝手に推測していた面があった。散文には時折、加齢や病に対する思い、体力増進のための行動などに触れられているところもあったが、自身の身体についての表現にも、言葉に拘り、美意識を貫いた作者らしさが滲んでいると思う。

句集に添えられたふらんす堂社主山岡氏の書面によると、作者は句集の校正刷りを確認したが、完成を待たず鬼籍に入られたとのことだ。生涯現役、という言辞はあまり美しくないが、この語を実現することは、実際にはかなり難しいだろう。作者が最晩年の二年間に二冊の句集を編み、俳人であり続けたことは、驚きに値する。

このまとまりのない文章を直接お見せできないことが残念でならないが、草葉の陰で「甘い」とこぼしてもらえていることをなかば確信して筆を擱く。最後に好きな句を挙げます。

白鳥は光ついばみつゝありぬ

寒梅に夢の始末の思案かな

木は立つて人は坐りてお正月

虹の街浮き足立つてゐたりけり

冥府にも北京ダックと夕焼と

風鈴やどくろは舌をもたざりき

平和てふ奥のおくには雲と薔薇

0 件のコメント:

コメントを投稿