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2022年2月25日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(6)

 第45回現代俳句講座「季語は生きている」       筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤羽根氏質問】

 さて、追加質問の件、今頃で申し訳ありません。

 私がお聞きしたいと思っていることは以下の3点です。(2点については回答済み)


3.「一月」の必然性について。


どうぞよろしくお願いいたします。


【筑紫】

     一月の川一月の谷の中(初出「俳句」44年2月号「明るい谷間(30句)」)


 この句は「一月」であって「正月」ではないことに注目すべきです。

 暦と言って、1月、2月、3月、4月・・・と思い浮かべるのは、西洋暦に慣れ親しんだ現代人の感覚です。芭蕉以来、明治の半ばまでは、暦は、正月、2月、3月、4月・・だったのです。もちろん、睦月、如月、弥生・・・という異名はありましたが、東洋を通じてのスタンダードは、正月、2月、3月、4月‥だったのです。

 そもそも暦の歴史は古く、王朝ごとに年の初めは変わったとされ、それを夏正(11月)・殷正(12月)・周正(1月)と呼んでいたように、年の初めを「正」というのです。

 明治5年の改暦に伴い太陽暦が採用され、1月、2月、3月、4月・・・の名称が採用されましたが、日本全国までそれが普及するまではだいぶ時間がかかりました。明治初期には改暦反対の一揆さえ起っています。なぜなら太陽暦に合わせて、民衆の行事を政府は実施させようとしたからです。旧暦を支えていたのは農村部の民衆だったからです。

 なぜこのようなことを言っているかと言えば、民衆の生活を踏まえたものではない暦の言葉「一月」は本来季題(伝統的な季節の題)でなかったからです。「一月」には何の本意もありません。俳句の言葉ではなかったのです。明治中期から進歩的歳時記には、「一月」が立項されましたが、逆に「正月」が削除されました。その典型は虚子の歳時記で、その経緯は西村睦子『「正月」のない歳時記』に書かれています。

 いずれにしても歳時記に一月が立項されても多くの俳人の意識はそれに追いつかず、一月の名句はなかなか生まれてきませんでした(最も新しもの好きの御先走りはいつの時代でもいるもので、新題としてせっせと詠む一部の俳人はいましたが)。

 日本の農村部の意識を決定的に大きく変えてしまったのは、敗戦でした。農村の生活改善の過程で、GHQの意向を受けて大きく農村は変わっていきました。衛生の改善、男女平等などいいこともたくさんありましたが、古い文化の断絶は進みました。おそらく正月意識が希薄になり、一月が普及したのはこうした背景があると思います。

 いいすぎになるかもしれませんが、一月の普及の裏側には正月の絶滅があるかもしれません。

 こんなことがあると、「一月の川」は正月を拒否している山河であることがわかってくると思います。情緒的な正月ではなく、無機的な一月の山河があるわけです。一月の季語には、正月行事の匂いは感じられません。そしてそれは、「一月の川一月の谷の中」という句に実にぴったりとあてはまるように思います。川と谷以外何もないというためには、冬でなければなりません。厳冬のイメージが必要です。12月は、日は極まっています(当時で日が一番短い)がまだ寒さの極致ではないようですし、「じゅうにがつ」では饒舌です。2月は、すでに春が萌し始めているという伝統があります。


【筑紫追加】

 前回で、「名前があってこそ名句になる」にお答えさせていただきましたが、龍太の「俳句は無名がいい」というっ言葉があるので少し補足させて頂きたいと思います。

 「俳句は無名がいい」と言っても「一月の川」の句はやはり龍太の名前がなければ世に出ないことは間違いありません。高柳重信や中村苑子がこの句を見出したのは、龍太の名前がついていたからでしょう。「一月の川」の句が有名になったればこそ出た龍太のセリフのように思います。

 ではなぜ、龍太が「俳句は無名がいい」などと言ったのかということを忖度すると、これは龍太流の俳句の作り方を述べているように思えます。秋櫻子や誓子のような個性がぎらぎらした作り方(実は案外「馬酔木」や「天狼」には類型的な俳句が多いのは面白いですが)を最善のものとせず、もっとふっくらとした作り方を求めているように思うのです。

 そしてこのふっくらとした作り方こそ、虚子が進めた題詠法、――つまり題を使って山ほどの類想句を詠んだ挙句に突然恩寵の様に出来上がる傑作と似たような作り方ではないかと思います。虚子は、「玉藻」の研究座談会で、龍太や波郷の俳句を「我が方の俳句と近い 」とほめています。秋櫻子や誓子のほめ方とは明らかに違うのです。

    *

 以上色々腑に落ちないことがあるかもしれませんが、それはよくわかります。ですからこの論は私の考え方を押し付けようというのではなく、新しい考え方を導入し、共に進歩したいと思っているからであり存分にご批判いただきたいと思います。


(続く)

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