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2021年8月27日金曜日

【新連載】澤田和弥論集成(第5回)

 (【俳句評論講座】共同研究の進め方――「有馬朗人研究会」及び『有馬朗人を読み解く』(その1) 津久井紀代・渡部有紀子)より転載

【津久井紀代】

1.一作家を究めるということ

                津久井紀代

 この稿を興すきっかけになったのが評論家坂本宮尾の一通の手紙からである。そこには次のように書かれている。「ついに朗人句集十冊読破、すばらしい。偉業ですね。とりわけ独りで読むのではなく多くの人に学ばせ楽しみながら作業したところがほんとうに立派。おめでとうと百回言いたい。」というものである。率直にこころが震えた。この研究はこれで良かったのだとやっと自分にけりをつけることが出来た。

 坂本の言うところの偉業とは「有馬朗人全句集10巻を読み解く」という壮大な計画を立て、五年余をかけてこの度読破したことを差すものである。

 この計画は『天為』同人故澤田和弥の発言に依るものである。これを実行に移したのが『天為』同人内藤繁である。有馬先生の了承を得て、丁度『一粒の麦』の評論集を出したばかりの筆者が講師として招かれた。

 この計画がどのように進められたかを残っていた当時の資料から検証してみたい。

 結論を急ぐと、この計画が成功した理由には大きく次の三つことを挙げることが出来よう。

1.坂本が言うように独りではなくみんなで読み解いたということである。このことはすでに『天為』誌上において対馬康子が指摘していることでもある。有馬朗人研究会をはじめるにあたり「勉強会の目的」を掲げた。「有馬朗人の新しい世界を創り上げる。朗人に関する今までの知識は筆者が伝えるので、その上で新しいことを発見する。新しい眼で朗人俳句を見ると、意外な発見がある。そこが勉強会の目的である。その成果を一回ごとに出す。それにはみんながひとつになること。」と掲げたのである。

2.一回ごとの成果として、一つの句集が終わるたびに一冊づつ本にまとめて出版した。

これは最初から決めたことではないが研究を進めていく上において「纏めておきたい」という思いから、出した結論である。しかし、一冊出したがすべて個人の資金でやるという事は大変なことであった。途中なんども挫折したが、研究会会員の熱意が勝り、ここまでやっと出版することが出来た。最初の『母国』『知命』については筆者一人の著書として纏めたものである。理由として講義は筆者が主で進行していたためである。『天為』の三冊目に入ったころ、会員の一人から発言があった。「講師ばかりの発言でななく、みんなの意見を活発にしたい」というものであった。私はここで一つの成果を得た、と思った。三冊目は会員一人が一句づつ有馬朗人の句について論じたものを掲載した。この頃からノンリーダーの方式を採用した。一人一人全員で割り当てられた句について論じるという形式になった。これも一つの成果であったと確信する。会員は一回ごとに膨大なレジメを作成し発表したのである。

3.五年余という時間を人数は増えても挫折者がでなかったことの理由として、「有馬朗人の俳句を読み解く」という事のみに終わらなかったことである。その背景にあるものに膨大な時間を費やしたことに拠るものであろう。一例を挙げる。

 まづ第一句集『母国』に触れると略歴として年代、年齢、東大入学、東大ホトトギス入会、夏草入会、「子午線」創立にに参加、古館曹人、高橋沐石との交流。背景として 前半10年間アルバイトの連続、生活に追われ、疲れ果て、電車の中で立ながら眠った青春。生き抜くための励ましは俳句と物理の他なにもなかった。初めての海外出張シカゴアルゴンヌ研究所とその周辺のこと。俳壇での『母国』の評価、同年代鷹羽狩行、上田五千石、原 裕、について述べた。

 このように全体を把握した後に、一句一句について鑑賞を試みた。

 更に、「山蚕殺しし少年父となる夕べ」の句については斎藤茂吉が下敷きにあること

から斎藤茂吉について多くの時間を費やした。「水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も」に

対しては、山口青邨の「ある日妻ぽとんと沈め水中花」を揚げ、山口青邨に膨大な時間

を使った。西東三鬼の即物的手法についても学んだ。「運河淀む蝙蝠己れの翳おそれ」では塚本邦雄と二物衝撃に触れた。「冬の夜も影ひくいとど草城死す」からは、大正後期没個性時代ホトトギス沈静期の無人時代に草城が突如現れたことから、大正時代初期に頭角を現した虚子の四天王について例句を挙げながら読み解いた。

 第二句集『知命』については主に聖書に触れながら海外俳句に多くの時間を使った。

 第三句集『天為』については海外からみた日本の伝統の美について論じた。

 繰り返すがこのように句集を読み解きながらその背景に多くの時間を費やしたことが

五年余という時間の重みになっていると思われる。

 この稿を書いているとき、井上弘美さんより『読む力』(角川)をいただいた。そこには次のように書かれている。

 「名句は誕生したときから光を宿している。しかし、その光を感じとったり引き出したりする読み手がいなければ、光は孵らない。光を放つ一句と出合える喜びは何ものにも代え難い。・・・しかし、そんな一句に出合ったとき、その輝きがどこから生まれるのかを読き解き、誰かに伝えて感動を共有したいといつも思う。」

 この一文に出合って、この五年間は無駄ではなかったことを確認できた。さらに「・・ある世界史の先生がようやく教科書の内容が絵巻物のように、途切れることなく一枚物として、自分の中でつながりました、と晴れやかに語ったことがあった。」と述べている。

最後に成果として言えることはこの井上弘美が言う様に「有馬朗人」が絵巻物のように一枚物として会員全員の心の中に繋がったことである。有馬朗人にとって決して満足のいくものではないことを承知しているが、この10冊を読み解くという作業を終えた後、会員がいかなる論を展開していくかが今後の課題である。すでに渡部有紀子が名乗りをあげている。

 私自身もこのままで終わるつもりはない。すでに論点はきまっているが、3年くらいをかけてじっくり取り組みたいと考えている。

つれづれなるままに


【渡部有紀子】

2.「有馬朗人研究会」について

                   渡部有紀子


 有馬朗人研究会は、「天爲」の有志たちが始めたもので、平成二十六年九月より令和元年十一月までの五年間、毎月一回休むことなく開催した。

 この会の設立には、天爲の浜松支部同人、故澤田和弥が大きく関わっている。

 和弥氏の第一句集『革命前夜』出版を記念しての句会を神奈川県藤沢市で行った際に「結社の中の若手を育成するにはどうしたらよいだろうか?」という相談を和弥氏にしたところ、「主宰である有馬朗人の全ての句集を徹底的に読み解く研究会をすると良い」という助言を得た。

 これに応えて研究会の設立準備を進めていた頃、有馬朗人の作品百句について論評をまとめた著書を出版したばかりだった東京の同人、津久井紀代氏と知遇を得ることができ、氏を講師役に迎えての研究会が始まった。会の代表は神奈川の同人、大西孝徳氏である。

出席者は神奈川県内の「天爲」同人・会員で毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員は約十八名であった。

 また、研究会では各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行した。この度、「俳句新空間」に掲載の機会をいただいた本稿は、もともと第十句集『黙示』についての冊子に寄稿した原稿である。よって文中には、それまで発行した第一句集から第九句集についての報告冊子での内容を踏まえて書かれた箇所も多い点はお許しいただきたい。

 所属する結社主宰の句集に対し、主に結社内の人々に発表する論考であることから、どうしても「師の礼賛」あるいは、有馬朗人本人が過去の著作やインタビューの中で語ったことを「師の言葉」として無条件に受け入れてしまうといった傾向から逃れることはできなかったという反省もある。

 それでも有馬朗人という一人の俳句作家の作品を全て読み解いたことで、二十代・三十代から現在の八十代に至るまで、師が俳句を通じて志向した一本の線のようなものがおぼろげながらも見えてきたこと、有馬朗人俳句はこれまで巷でよく言われてきたような学術的な知識の豊富さのみでは語り得ないのではないかと気づけたのは大きな収穫であった。これをいかに結社外の人々にも説得力ある論に展開していけるかは、今回の筑紫磐井先生、角谷昌子先生からの御評でご指摘いただいた点をしっかりと受け止め、論考を重ねていきたいと思う。まだまだ不勉強の身ではあるが、これからも両先生はじめ「俳句新空間」、俳人協会「評論講座」の皆様よりご鞭撻いただければ幸いである。


【俳句界4月号より転載】

 天為「有馬朗人研究会」最終回  令和元年十一月二十六日(火) ユニコムプラザさがみはらに於て


 有馬朗人研究会は「天爲」浜松支部同人、故澤田和弥の助言により神奈川県の有志たちが始めたもので、主宰有馬朗人の全句集を読み解く会である。

 講師役に同人津久井紀代を迎え、平成二十六年九月に藤沢市総合市民図書館会議室にて第一回をもち、以降、月一回定例的に五年間休むことなく開催した。出席者は毎回十三名前後。同時期に東京でも開設された会の五名を合計すると、全会員約十八名である。

 物理学者である有馬朗人は、研究機関の委員や理事などの仕事で海外に出向くことが多く、これまで米国、欧州、中東、南米、特に中国での作品を発表している。「天爲」同人には中国からの留学生も多いが、留学生向けの寮の運営関係者が本研究会に参加。中国で詠まれた句に深い洞察を与え、大いに刺激となった。

 「漢詩や外国の歴史について調べるきっかけとなった」「国内作品には、古事記だけでなくアイヌや沖縄の神話も詠み込まれていて、新たに知ることが多かった」「ごきぶりなどの忌み嫌われがちな生物にも的確な写生を与え、科学者としての冷静なまなざしを感じる」と、いった発言が会員から寄せられた。

 また、各句集が終了する毎に会員各自の学んだことを記した冊子を発行。最終の第十句集『黙示』については、二〇二〇年三月の発行となった。最後にこの冊子より会員の論考を一部抜粋する。


 「朗人俳句についてよく言われることは、海外俳句と日本での作との間に差がない……つまり「平常心」という事である」(津久井紀代 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)

 「朗人俳句は……上六、中八、下六など、俳句を音のバランスで創り上げている」((澤田和弥 『同シリーズ① 第一句集 母国』より)

 「(〈ねこじやらし神々もまたたはむれて〉について)日本独自の俳諧味……一神教の風土では、森羅万象、至る所に神々がいるというのは、ほとんど生まれない発想」(大西孝徳 『有馬朗人を読み解く⑤ 第五句集 立志』より)

 「その土地の歴史や風俗、人々の暮らしに思いを馳せて、重層的な句作りを行っている点が非凡」(杉美春 『同シリーズ⑨ 第九句集 流轉』より)

 「(<万霊雪と化して原爆ドームかな>について)作者は物理学者として……慙愧に堪えない……「万霊雪と化して」の言葉が心の叫びとして響きわたる」(妹尾茂喜 『同シリーズ⑥ 第六句集 不稀』より)

 「眼前の自然風景の中にある隣りあう二つの世界の存在を読者に感じさせる詠み方であれば、海外、日本国内を問わず詩情豊かに且つ、読者にも判りやすい俳句が作れることを朗人主宰は発見した」(渡部有紀子 『同シリーズ⑧ 第八句集 鵬翼』より)

(報告:渡部有紀子)

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