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2021年7月23日金曜日

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ (12) ふけとしこ

    握り墨

青き葉に青き実の見え盛夏なる

七夕も過ぎたる奈良の握り墨

かなぶんのぶつかり癖といふ遺伝

モノクロに仕上げる写真夏つばめ

時鳥西国十番三室戸寺

    ・・・

 友人の写真展を見に行った時、多くの写真の中で私が惹かれたのは一輪の薔薇の枯れ始めた姿を捉えた作品であった。「この写真欲しい!」と彼に注文した。同行の女性が「いややわ! そんな死にかけの花なんか……」と言った。「もっと元気な写真を飾った方が絶対いいよ。こんなの見てたら気持が萎えてしまうよ」というわけである。勿論その通り。ただ、光や影や角度やと、工夫された作品の中、枯れ始めた花へカメラを向けた心情、更にはそれを作品として出展する気持等々、そんなことも含めて気に入ったのだった。

 ある俳誌の表紙に蒲公英の絮の、その大方が飛び去った写真が使われていた。綿毛つまり種が全て飛んでしまえば、この台座(?)は役目を終えたことになるのだな、と接写されたそれをしばらく眺めていた。後は倒れて干乾びてゆくだけだ。

 蒲公英は春の花に分類されているが、ほぼ一年中どこかで咲いている。咲けば綿毛を作るから、こちらも季語としては春。花と実が同季ということになる。

 そんなことをばんやり考えていたら、「対岸」7月号に

たんぽぽの絮吹く息の無駄遣ひ  今瀬剛一

という句を見つけた。「息の無駄遣ひ」という措辞にちょっと驚いた。同じフーッと強く吹く息でも火を消したり、熱いものを冷ますのではなく、遊びで綿毛を散らしているのは、確かに無駄遣いに違いない。肺機能が低下している人などからみれば、本当に羨ましくも妬ましいことであろう。

 蒲公英の側に立てば、種を飛ばす手伝いをして貰って「ありがとう」なのだと思うのだが。

 掲句の「息」から反射的に思い出したのが

手をのべてあなたとあなたに触れたきに

     息が足りないこの世の息が  河野裕子

の一首だった。この人の絶唱である。思い出す度に鼻の奥が熱くなる。この世での最後の歌、最後の息……。

 それにしても蒲公英という花、早春から咲き出して、特に黄花は道端や野原を輝かせるし、花の可憐なことに加えて、あのまん丸い綿毛のお陰で随分得をしている。

蒲公英の絮吹いてすぐ仲良しに  堀口星眠

 きっと二人以上の女の子達。可愛いな。

(2021・7)

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