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2021年5月14日金曜日

【篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい】13 『火の貌』小評  北杜 青

  篠崎央子さんとは、毎月一回、土曜の夜の句会をご一緒させていただいています。いつもご主人の冬眞さんとあわただしく入ってこられ、おにぎりを頬張りながら、夢中で出句されています。大変お忙しく、本当に句会が好きな方です。

 筑波嶺の夏蚕ほのかに海の色

私が土曜の句会に参加させていただくようになって間もなくの頃の句です。大変美しい句ですが、同時に古代の神々とつながる山岳信仰の地であり、農蚕発祥の神話も残る筑波という土地の古層から連綿と繋がる人の営みに対する思いを感じます。

央子さんの句は、人事を詠んでも自然を詠んでも単なる写生に終わらない、自然と一体になった人の営みに対する濃密な愛着を感じます。人と隔絶された、眺めるだけの自然ではなく、人々の生活の場としての自然、古くから時に激しく、時にやさしく私たちと対峙してきた自然の中に央子さんの俳句があるのだと感じています。

 秋彼岸きまぐれに伸ぶ波の舌

非常に眼の効いた写生句ですが、同時に波の舌と表現したこと、季語が秋彼岸であることで、何か向こう岸(涅槃)から波の舌が伸びてきているような不思議な感覚が生まれています。

 浅利汁星の触れ合ふ音立てて

生活者としての日常から繊細な感覚で詩情を掬い取った句です。浅利という言葉の姿や音が何故か天空の星々と切っても切れない関係で結ばれていることを納得させられる句です。

 柵を這ふ月のこぼせる捨蚕かな

中七が何とも切なくて、捨蚕をここまで美しく詠んだ句を他に知りません。ここでも自然と人との悠久の営みが詠まれていますが、「月のこぼせる」は、自然ととことん寄り添ってこそ生まれた措辞だと感じます。

『火の貌』は、様々な表情を持った句集ですが、この句に代表される自然と人の営みを詠んだ句から、白洲正子の紀行文集『かくれ里』の世界を感じました。白洲正子は、かくれ里について、「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。」と書いています。央子さんには、まさにこの「ひっそりとした真空地帯」の雰囲気を色濃く宿している句があります。央子さんは、よく自ら吟行を企画されて、ご一緒させていただくことがありますが、同じところを歩いても、出てくる句が纏う雰囲気が他の方とは全く異なります。飯田龍太が言う旅館の裏側ではなく、白洲正子のこの「ほんのちょっと街道筋からそれたひっそりとした真空地帯」の雰囲気がぴったりです。

 指先より魚となりゆく踊かな

 踊りのなかで一番大切なのは手の動きですが、その指先から魚になってゆく、繊細でしなやかな動きが描かれています。また、「の」ではなく「より」であることでやがて踊子の身体が魚になることを予感させ、娯楽としての現代の盆踊の雰囲気を軽々と超え、空也や一遍の念仏踊、さらにそれ以前の郷土信仰のなかの動作としての舞や踊りの雰囲気を纏った句です。

 触れてゐて遠き芒の銀河かな

 満天の星空のもと、作者は、今、たしかに月白に輝く芒に触れていますが、触れることによって限りなく遠いことを感じています。触れることでしか感じられない芒原の遥かさが描かれています。

 火の貌のにはとりの鳴く淑気かな

 読み終わるのを惜しみつつ開いた最終頁に置かれたこの句は、一集を締めくくるに相応しい一句です。限りなく澄んだ写生の眼によって生み出された上五の表現は、淑気という季語の本意に新たな感覚を加えるものだと感じます。初春の早朝、張り詰めた空気を貫く一番鶏の声は、天の岩屋戸から天照大神を呼び出す常世長鳴鳥の声であり、新たな年を照らす太陽を呼び出す、激しくも厳かな鶏の貌が見えてきます。央子さんの自然に寄り添った写生の先にある表現の自在が遺憾なく発揮された句だと感じました。

 俳人協会新人賞を受賞した央子さんの句集『火の貌』の感想を書かせていただき、大変光栄でした。ありがとうございました。

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