『沖縄の涙』
阿部誠文の「従軍俳句・人と作品」シリーズの『沖縄の涙』(二〇二〇年九月青嶺叢書)が出た。阿部にとって、このシリーズは『戦場に命投げ出し』(一九九五年。二四冊の従軍句集を紹介)、『ある俳句戦記』(二〇〇〇年。二〇冊の戦争詩華集に見る従軍俳句を紹介)につづく第三冊目に当たる。『戦場に命投げ出し』に続き、再び従軍句集で、前集に盛り込めなかった一六冊の句集を含んでいる。阿部のライフワークである。標題は『沖縄の涙』とあるが沖縄の句集だけではない。『沖縄俳句総集』を収録しているが、様々な従軍句集である。戦前に刊行されたものは四冊、あとは戦前に準備をされたものも含めて戦後の句集である。未完原稿から起こされたものもある。
この中の圧巻は、田中桂香『征馬』(昭和一五年)の発見であろう。阿部は「従軍句集の白眉とされる名句集である」というが私は寡聞にしてこの句集の評価を他に聞いたことはない。しかし、今回読んでみて確かに刮目するところがあった。それはこの句集が日本で最初の多行句集でもあるからだ。発行所は、吉川禅寺洞の「天の川」であり、「天の川」は当時多行表記が試行されていてその影響もあるだろうが、恐らく戦場の緊迫を伝えるために多行表記は最適であった。大半が二~四行の句となっている。無季の句が多い。
馬は征く
腰骨高く
枯地ゆく
田中桂香は「天の川」に属し、元々獣医であるが、応召して昭和一二年から一四年まで中国北部を転戦した記録である。題名『征馬』通り馬の句も多い。阿部によれば「腰骨高く」はそれ程に痩せているのである、食糧も十分ではなく、過酷な労働、病気があるのかもしれない、という。頭韻、脚韻が効果的である。
たふれたる馬を
草地にはなしゆく
阿部は、戦傷を負って動けない馬は、草地に放す、放牧ではない、捨てるのである、いずれは死ぬ馬かもしれない、という。
耕せる農夫と見しが
重機撃つ
*
一村を火にして
朝をひきあげたり
私も沢山の従軍俳句を見てきたが、そこには戦争を賛美する句、反戦の句、戦場でこともなく花鳥諷詠を詠む句とあるが、僅かにリアルな描写句もないわけではない。掲げた句は最後の傾向で、戦争の真実を描く。農夫はゲリラ兵なのであり、報復として日本軍は村を殲滅させる。これでもまだ、戦争の前期であるから、残酷さは少ないかもしれない。
阿部は、田中桂香は掲げた軍歴以外解らないというが、私の調べたところでは、昭和四〇年代末まで存命していたらしい。
『畑打って俳諧国を拓くべし』
次に紹介したいのは、ブラジルの俳句王国を実現した佐藤念腹(明治三一年~昭和五四年)の評伝である。蒲原宏が主宰する雑誌「雪」に連載した評伝をまとめたもので七百頁に及ぶ大冊である(大創パブリッシング令和二年六月刊)。念腹は新潟の出身で、高浜虚子に師事し、中田みづほ、高野素十(いずれも新潟医専の教授)らの指導を受けたこともあり、新潟俳壇との関係が深い。昭和二年にブラジルに移植し、開拓と同時にホトトギス俳句の指導に当たった。入植に当り、虚子からは〈畑打つて俳諧国を拓くべし〉を頂き蒲原はそれを書名とした。入植後は〈雷や四方の樹海の子雷〉〈ブラジルは世界の田舎むかご飯〉などでホトトギスで五回の巻頭を得ている。
念腹がホトトギスの支援を受けて順調であったかと言えば必ずしもそうではなかったようであり。当時すでに新興俳句はホトトギスを敵として活動していた。領事館の支援を受けて俳誌「南十字星」が創刊されたのだが、ホトトギスと新興俳句の対立から念腹は不参加の態度を決める。本土の虚子・素十と新興俳句の代理戦争の趣があったようだ。
戦争が始まると、念腹はさらに大きな影響を受ける。ブラジルは日本を敵国と見なし、昭和一六年から移民中止、一七年からは国交断絶、日本語禁止(家庭内教育ですら!)、日本人の集会禁止の措置を受けることとなる。日本語で笑ったといって検挙されたという。とても俳句どころの状況ではなかった。念腹も、収監はされなかったものの書物の押収を受けた時の句を残している。
やがて敗戦を迎えた。戦後の勝ち組・負け組の争いは殺し合いにまでなり熾烈であったようであるが、意外に俳句の復興は早く、昭和二〇年から念腹は次々と句会を起こし、新聞俳壇選者となり、ブラジルでは本国に先がけて俳句ブームを招来したようである。
やがて昭和二三年に俳句雑誌「木蔭」を創刊し多くの俳人を育てた。「木蔭」のピーク時会員は八百人という。念腹は昭和五四年に八〇歳でなくなったが、弟の牛童子が「木蔭」を承継した「朝蔭」を創刊した。大冊を駈足で通り過ぎてしまったので著者には申し訳ないが、実に波瀾万丈の生涯であった。
(以下略)
※詳しくは「俳句四季」1月号をお読み下さい。
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