中西夕紀さんは、挑戦の人だ。何事にも果敢に挑んでゆく。平成17年に師である宇佐美魚目が傘寿を迎えるにあたり、魚目門下の主だった面々で『宇佐美魚目傘寿記念文集』の刊行を企画した。その発案者が中西夕紀さんである。全国の高名な俳人に論文、随筆、作品鑑賞の執筆依頼をし、私ども門弟も励まされて文集作りに取り組んだ。斯くして立派な『宇佐美魚目傘寿記念文集』が出来上がった。
その記念文集で、夕紀さんは「見えないものを見る」と題した魚目論を展開した。芸術の真の目的は「自分との出会い」であると記している。あれ以来、本当の自分に出会う旅を、見えないものを見る旅を続けているのだ。
第四句集『くれなゐ』は、素直に自分を見つめ、胸奥に分け入り詠まれた魂の書である。平成10年頃から夕紀さんは、魚目先生ご指導の吟行会、指月会に東京から泊りがけで参加し研鑽を積んだ。師の懐深く飛び込んで、俳句の神髄を極めようと必死であった。大きな存在にひるむことなく堂々と立ち向かってゆくその姿に圧倒された。
平成20年には結社「都市」を創刊して、新たな俳句の時空を求めて船出した。句集『くれなゐ』は俳句と格闘する歩みそのものである。
日の没りし後のくれなゐ冬の山
山々を染めて今まさに沈もうとしている冬の日。薄墨を流したような夕闇が迫る中、くれないが静かに流れる。闇に包まれる間際のくれないは、夕空を荘厳して切ないほどだ。懐かしい人たちとの惜別の色、くれない。師魚目や、盟友大庭紫逢氏やご親族との断ち切れぬ思いが滲みだしている。自然の絶頂に心を通わせる見事な一瞬をとらえた。
逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花
「魚目先生の思い出」と前書のある四句のうちの一句。師魚目の佇まいといい、格調高い作品世界といい、そこには桐の花のような風情がある。名古屋に住まいがあった先生に今一度逢いたいと願いつつも、いつの間にか時が経ち逢う機会を逸してしまったという悔いのような思いが出ている。いつの頃だったか、夕紀さんに誘われて魚目先生のご自宅をお訪ねしたことがある。尊敬する先生の前に立つと、縮こまってしまう私であったが、夕紀さんは臆せず、俳句の奥義のあれこれを、納得できるまで質問していた。そんな夕紀さんの大胆さを羨ましく思ったものだ。
髪の根に汗光らせて思念せる
髪の根に汗が滲むほど、あれこれ考える。考えごとをする時は、どうしても髪に手がゆく。髪は女性の象徴のようなもの。襟足に汗を光らせながら思考錯誤する真剣さが滑稽でもある。
筆圧にペンみしみしと雲の峰
原稿を執筆中なのだろう。万年筆のペン先がみしみしと音を立てている。ときどき顔を上げてみると、空には真っ白な入道雲が育っている。ほっと一息ついてから、またペンを走らせる、そんな何でもない日常にも大きな詩空間が広がっているのだ。原稿用紙につぎつぎと文字が生まれる喜びが「みしみし」である。
夕紀さんの俳句には、長い射程がある。遠いまなざしで俳句空間を組み立てる。以前、夕紀さんから「師の作品に近づきすぎて作品が似てしまってはいけない」と聞いたことがある。いかにして師の作品と離れられるか、越えられるかを真剣に考えているのを知り、驚いたことを覚えている。独自性を大切にして、自分の俳句を目指しているのだ。
義仲を育てし谷の雪煙
句集『くれなゐ』の魅力は多彩な俳句群にある。歴史的なものから、現代的なものまで
幅がひろい。平安時代末期の悲運の武将、木曾義仲を育てた木曾谷を雪けむりが走る。まるで義仲の悲運を晴らすかのように、走る雪けむり。平安時代の舞台に一気に引き戻されるようだ。俳聖、松尾芭蕉も愛したという木曾義仲は、近江の義仲寺で芭蕉とともに眠る。無常迅速という運命の儚さが真っ白い木曾谷に重なる。
蘆の中蘆笛鳴らせ無為鳴らせ
子供たちの遊びといえば、昔は草花を摘んだり、草笛や蘆笛など自然の中のものが多かった。田や畑で泥んこになりながら日暮れまで遊んだ。自然が友達だったのである。でもこの作品は子供のころの懐かしさを誘う作品ではない。夕紀さんの生きる姿勢が表れている作品だと思う。「無為鳴らせ」とは難しい言葉だけれども、想像するにどんな時も自然体でいようと、自身に言い聞かせているように感じる。きっぱりとした姿勢、真っ直ぐな姿勢が表れている。
かなぶんのまこと愛車にしたき色
またなんとユニークな。ぴかぴか光るかなぶんのような愛車。車はしばしば女性に喩えられるが、まさかかなぶんとは。緑の葉の上にいるかなぶんの身軽さ。身軽ではあるが、繊細でしかも頑丈なかなぶんの翅はまさに高級車仕様。使い慣れた車は恋人のようなもの。かなぶんの翅に童話の国の扉がひらく。
ばらばらにゐてみんなゐる大花野
集中白眉の作品である。爽やかな花の香、草の香がする中にいる人たちは、みな心の通った同志なのだろう。俳句をともに学んでいる人たち、かつて俳句を通じて親交のあった人たち、いやそればかりではなく、縁のあった人たちの気配のようなものが、そこここに漂う。姿かたちは見えなくとも、この花野のどこかにいるような懐かしさ、親しさ…。出会いの一つ一つが健気な日常に繋がっていることを実感しているのだろう。深いところにある気持を、きちんとした形で表す。それこそが夕紀俳句の醍醐味。
射程距離の長さが捉えた「ばらばらにゐてみんなゐる」花野である。
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