【テクスト本文】
佐藤鬼房『夜の崖』を読む 若さと血気 中西夕紀
初期の句集に作家の本質を知る手立てがあると良く言われている。佐藤鬼房には『名もなき日夜』という第一句集がある。そこに初期の代表作
切株があり愚直の斧があり
をみることが出来る。しかし、彼が俳句を思想的に意識的に作った作品は、第二句集『夜の崖』だろう。鬼房という俳人の創意が見える初期の句集として、『夜の崖』を読んでみたい。
『夜の崖』は鬼房の全十二句集の中の二冊目で、昭和三十年に出版された。西東三鬼の序文、鈴木六林男の跋文という体裁である。
この時までの鬼房の経歴は、大正八年三月二十日、岩手県釜石生れ。本名喜太郎。大正十四年、二十九歳の父を脳膜炎のために失い、続いて弟二名の内の一人が嬰児で死亡。鬼房と弟は母親の魚の行商の稼ぎで育てられる。小卒。
昭和十年「句と評論」に投句、その後長谷川天更の庇護を受け「東南風(いなさ)」同人となり、新興俳句に連なる。昭和十五年から七年間兵役。戦争中、中国で鈴木六林男と会い、戦後、昭和二十二年から西東三鬼に師事し、六林男等と「青天」「雷光」「夜盗派」などの同人誌を経て、山口誓子主宰、三鬼編集の「天狼」に入り、二十八年には社会性俳句が盛んだった沢木欣一の「風」にも入会する。昭和二十九年第三回現代俳句協会賞を受賞、というものである。
幼少時からの貧困と、小学校の教師から教わった『蟹工船』『女工哀史』などのプロレタリア文学が、鬼房の文学の原点だった。
『夜の崖』は、新興俳句、社会性俳句の特徴を備えた句集ということが言える。昭和二十六年から二十九年まで、鬼房三十二歳から三十五歳までの句を集めている。昭和二十六年は朝鮮戦争の最中であり、一回目の日米安全保障条約締結のための国会承認で、日本国中が騒然としていた。そういう時代を念頭にして読むと、より緊迫感が伝わってくるようだ。
病む夜星・なほ隣邦に戦つづく 二十六年
梅雨黴に胸つく語あり「死の商人」 二十六年
土間に這ふ羽蟻や破防法通る 二十七年
友ら護岸の岩組む午前スターリン死す二十八年
刈田にネオン兵隊部落闇に浮く 二十九年
事件を詠っている句群である。騒然としている日本社会を描こうという意欲が前面出ている作品である。体制に反対する姿勢と怒り、しかしどうにもならない無力な自分への怒りの相克が、句の原動力になっている。
政治的な面から社会を描いた俳句の難しさは、事件が過ぎて社会の仕組みが変ってしまうと、当時の共通認識だった考え方や市民感情が風化してしまい、当時の読者にはわかったことが、後の時代の読者には理解できなくなってしまうところにある。これらの句も事柄としての事件はわかっても、この事件に対して、鬼房が何を訴えたかったのか残念ながら伝わって来ない。ここに事件を詠う俳句の難しさがある。
では、事件から離れて、生活の見える句を見てみよう。
病める眼に真昼川岸風巻いて
いねし子に虹たつも吾悲壮なり
児を胎にトロをきしらす寒気中
奪らるものなし白息が楯きしむ骨
戦あるかと幼な言葉の息白し
吾のみか粗食の目腫れ鋼(まがね)打つ
「いつもぎりぎりのところで、張りつめた思いで句を詠んでいたということ。いまどきはやらないが、青春の一時期、死ぬ思いで作句に従ったことは大変貴重だと私は思っている」(平成七年「蘭」野沢節子追悼号)と、後年鬼房は述べているが、これらが必死に作られたものであることは、句が発する気迫から窺うことができるし、生活の極めて厳しい状況が、 確かに、苦しげな呼吸音とともに語られている。
若い妻と、幼い女の子二人と、妻の胎にはもうすぐ生まれるはずの男の子がいる。鬼房の身体は弱く故障が多い。その身体を張って家族のために働く。「悲壮なり」というストレートな言葉は重い。身を振り絞るように働いても、生活が楽にならない、先行きが見えない苦しさにもがいている作者のため息が聞こえる。身重の妻もトロを引いて黙々と働く。ある日、大人の話を聞いていた幼い娘の口から出た、「戦争はあるの」という問の重さにたじろぐ作者。こんなに幼い子までが、世の中の不穏な空気を感じ取っているのである。子供の鋭い感受性が捉えた不安は、親たちの不安を鏡に映したようなものだ。粗食で目が腫れているという句の句調は厳しく、言葉はぼきぼきと折れては繋がって、緊張感を醸し出している。このリズムの悪さが、読みにくくしているのだが、これが新興俳句を引き継いだ鬼房的な特徴なのである。
壁になる冬の胸板軍備すすむ
怒りの詩沼は氷りて厚さ増す
ねむりさへ暗夜ひばりの湧くごとく
夜明けには刈田の足型動きだせ
晴れぬ眼がみつめて重きこの世の雪
また観念的であることも鬼房の句の特徴である。句は見た物を描くのではない。想念で描いているのである。鬼房は湧き出て来る思いを、詩的に描く困難にぶち当たっている。いまだ表現が思いに追いついていないようにも見受けられるが、これも鬼房が通るべくして通ってきた道だったのである。
「新興俳句が果たした役割がどうであれ、私は何よりも、ここから権威というものに対するエネルギッシュな抵抗を感得したのだ。(中略)戦争体験を通し、人間性の回復や、詩性の回復を黙々と念じつづけてゆくなかには、新興俳句のもたらした目に見えぬ遺産が胸内に蔵われているからにほかならぬ。」(「俳句研究」昭和四七年三月号「雑感・わが新興俳句」)
この句集の後、しばらくかかって新興俳句、社会性俳句を払拭した鬼房であるが、この当時、一労働者として、社会への抵抗を描きたいという意思が泉の様に湧き出ていたのだ。多くの作品は、読者にすんなり入って来るようには洗練されていないが、嘘いつわりのない、朴訥なまでの純真さを感じさせる。
話は前後するが、戦争が終わり、戦争批判を描く新興俳句から、六林男とともに社会性俳句へ進み、昭和二十八年に沢木欣一の「風」に入会する。
同志とよび鉄骨担ふ火傷の手
刈田にネオン兵隊部落闇に浮く
幼児もここに棗の木ありオルグの燈
このように、社会主義運動の句が見られるようになる。社会性俳句とは、桑原武夫の第二芸術論で、俳諧は思想的、社会的無自覚という安易な創作態度であると批判されたことから起こったもので、沢木欣一の「社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心に、広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句を指す」という解釈と、金子兜太の「社会性は作者の態度の問題である。自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする社会的な姿勢が意識的にとられている態度」というのが代表的な解釈である。
これらの句群は、歴史的観点から見ると、当時の労働運動を描いて、戦後の俳句の一つの潮流を見せている。
鬼房が社会性に走ったこの同時期、新興俳句の雄であった師の西東三鬼はどうしていたのだろうか。
特高に睨まれていた三鬼の戦後は、山口誓子に近づき、新興俳句から穏やかな俳句へと変化して行った。鬼房が師事してからの三鬼の句集は、昭和二十三年刊の『夜の桃』、二十七年刊の『今日』、三十七年刊の『変身』である。三鬼は病気療養中の山口誓子が、素材よりも感情の表現を深めていったことを知り、誓子へ接近して、誓子を擁立して「天狼」を立ち上げる。そういう経緯から、三鬼の俳句は内面的なものへ変更して行ったのだった。機智の派手な句や、風俗句から離れた『今日』が出ると、世間では「三鬼の疲労」を指摘して、すこぶる評判が悪かったことを三橋敏雄は伝えている。
三鬼と行動を共にして、山口誓子の「天狼」に参加した鬼房と六林男だが、こんな三鬼とは方向を違えて社会性俳句の方へ重心を移して行ったのである。
「天狼」昭和五十五年十月号の鬼房第六句集『朝の日』の特集で、高柳重信は「ありて莫し」の中で、「友人が十年近く前、仙台に住む友人に会ったとき、たまたま佐藤鬼房が中心をなす句会に出席するようになったところ、たちまち勤務先の上司から強い忠告を受けたという話を聞いた。それも、どうやら佐藤鬼房の思想的な姿勢が問題となっており、その源をたどると警察の関係者に行きつくと言うのである。おそらくあの社会性俳句なるものが流行していた頃、社会主義リアリズムの俳句を推進するなど言挙げしたことが、その理由となっているのであろう。」
この話の十年前というと、昭和四十五年ごろとなる。戦後も四半世紀もたって、まだこのようなことが世間では言われていたのには驚かされるが、一方で、鬼房はかなり社会性俳句で、名を売っていたこともわかる一文である。
社会性俳句は、今となってはあまり評価されていないが、後に大成した鬼房の揺籃期がここにある。
彼は不器用に純朴に生き、そして血の出るような誠実さで社会と向き合い、一労働者の苦しい生活や心情を描いた。頭脳で描いた社会主義のイデオロギーではなく、身体や心に受けた痛みを描いた。私はそこに生身で挑んだ強さを見たように思う。
最後にこの句集で評判の良かった句を揚げて終わりにしたい。
縄とびの寒暮いたみし馬車通る
孤児たちに清潔な夜の鰯雲
黙々と生きて暁の深雪に顔を捺す
胼の手に文庫ワシレエフスカヤの虹
怒りの詩沼は氷りて厚さ増す
戦あるかと幼な言葉の息白し
齢来て娶るや寒き夜の崖
参考
『片葉の葦』佐藤鬼房
『蕗の薹』佐藤鬼房
『証言・昭和の俳句』上下 角川書店
『佐藤鬼房句集』
『佐藤鬼房全句集』
河北新報 平成十三年一月四日、十一日、十八日、二十五日、二月一日、コラム「談(かたる)」「俳人佐藤鬼房さん」
『現代一〇〇名句集』6 東京四季出版
『佐藤鬼房』花神コレクション
『西東三鬼』朝日文庫
【筑紫磐井・感想】
中西さんとは既に相馬遷子の共同研究で2年近く密着(三密ではありません)したやり取りをさせて頂きました。単行本も刊行し、馬酔木を含めてこれほど詳細な研究はないのではないかと思います。
その後も、楠本憲吉、宇佐美魚目などの評論を書かれているので、この初心者入門講座に参加していただけるのはありがたいことですが、批評者の力量も試されているようでやや肩の荷が重い感じです。
今回中西さんが取り上げられたのは佐藤鬼房です[「都市]8月号で「現代俳句勉強会 佐藤鬼房『夜の崖』を読む」に掲載されたものの一部です]。従来中西さんが師事されたり関心を持たれていたのは比較的イデオロギー的ではない作家でした。今回やや対極にある鬼房を取り上げたと言うこと自身が興味深く感じられます。
実は今、「伝統俳句における社会性」というテーマで連載を執筆中なので、金子兜太や古澤太穂、沢木欣一だけでない鬼房や六林男らについてもいずれ考えなければならないところがあり、中西さんの今回の論を拝見し、参考にさせて頂こうと思います。したがってあまり今まで提出していただいた評論のように批評や感想を述べるのではなく、共同の目的地へ向かうための疑問を提示してみたいと思います。従ってこれは、中西さんに対する質問であるとともに、私が今執筆中の連載における課題であると言うことにもなります。
執筆後、中西さんとやりとりして明らかとなった点を[]で補足しておきました。
①取り上げられたのは社会性の時代であることは間違いありませんが、鬼房が貧困の生活から社会性に向かったのは分かりますが、なぜ、金子兜太や古澤太穂のように組合運動や共産党への入党をしなかったのでしょうか。むしろそちらへ進むほうが自然だと思うのですが。どのような自制力が働いたのでしょう。
[①で共産党や組合に入っていないと言ってしまいましたが、鬼房は秋元不死男の勧めで新俳句人連盟に入っており、天狼ではだれも入っていないのに唯一の連盟会員だったそうです。新興俳句の作家としては珍しく、鬼房は人間探求派に共感を持っていたようです。だから連盟の、初代会長の石橋辰之助、次の会長の古澤太穂とも親しかったようです。鬼房のような境涯を経ると当然そうあるべきでしょう。その後、路線闘争に嫌気がさして、多くの会員たちと同様脱退したのではないかと思います。]
②鬼房が「風」に入会した時の「風」ではまだ社会性俳句は始まっていなかったようで、趣味的俳句が中心ではなかったかと思われます。なぜ「風」に入会したのでしょうか。
③鬼房が「天狼」に入ったときも、山口誓子も、秋元不死男も、西東三鬼も社会性俳句に批判的でした。なぜ、「天狼」に入ったのでしょうか。
[③は、鬼房の天狼同人になったのが昭和30年なので変な書き方になってしまいました。鬼房は次のように言っていますので訂正しておきます。
「(筑紫注:創刊後)遠星集(誓子選雑詠)を三年ほど続けたが、その中にはいまも健在な句がいくつかある。<繩とびの寒暮いたみし馬車通る>など。そして昭和三十年一月に津田清子・小川双々子・鈴木六林男とともに、天狼はじめての新鋭同人となったのだ。津田・小川は遠星集から、鈴木と私は天狼前衛誌グループからの参加である。振りかえって見ると、「落第坊主の弁」をぬけぬけと書くくらいだから、私は出来の悪い居据の新鋭だったろう。」(佐藤鬼房「「天狼」の思い出」天狼平成6年6月終刊号)
創刊号からしばらく遠星集に投稿し、その後は同人誌「雷光」で活躍しその功績で天狼同人になったようです。津田清子のような直接指導した弟子ではないと言うことで微妙な関係ですね。
天狼の同人は、雑詠欄から昇格する人と、別働雑誌から昇格する人がいたようで鬼房は後者です。ただ全然関係のない、三鬼がヘッドハンティングした沢木欣一、細見綾子もいて、ホトトギスや馬酔木、鷹、沖などに比べると複雑怪奇です。天狼が一代で終刊した理由も何となく分ります。
それはそれとして、興味深いのは、中西さんも上げられている鬼房の代表的な句である<繩とびの寒暮いたみし馬車通る>の句は、山口誓子選遠星集の句だと言うことです。鬼房の代表句であると友の、誓子選雑詠の代表句であると言う二面性を持っています。誓子選という目で見ると少し違った風景が見えてくるようです。]
④作品が優れていたかどうかは別として、金子兜太も、佐藤鬼房も、桂信子も社会に関心を持っていたことを忘れてはいけません。われわれは、それらの社会性を排除した限定した作品をもって彼らを論じています。逆に言えば、そうした無益な作業をしている我々に、彼らは憐れみを持っているかもしれません。それは、詩人や歌人が俳人に対して持っているのと同じ憐みのようにも思います。桑原武夫は第二芸術と呼びました、俳句が第二芸術であるのは間違いだと思いますが、素材を限定している以上、限定芸術と呼んでよいかもしれません。そうした視点から、金子兜太も、佐藤鬼房も、桂信子も読むべきだと思います。
【角谷昌子・感想】
俳句評論講座が感染症問題で休止している中、中西さんには、佐藤鬼房に関する評論をご提出いただき、嬉しく思っています。
つい最近、第四句集『くれなゐ』を上梓され、このたびは、評論に挑戦されました。ご自身は「評論は苦手」とおっしゃいますが、筑紫さんがご指摘のように、過去に相馬遷子はじめ、いくつかの評論を手掛けていらっしゃいます。
時間がなかったため、簡単で恐縮ですが、以下に感想を書かせていただきます。
鬼房は句集を14冊上梓しており、その中から第二句集『夜の崖』に絞って「社会性俳句」を手掛かりとして論を展開されたのは、よかったと思います。
鬼房は新興俳句・社会性俳句の作家として評価されましたが、自身はけっして安んずることなく、新興俳句・社会性俳句に批判を加え、後年には観念の桎梏から解放され、詩の普遍的な命題へと挑戦してゆきました。
筑紫さんが、いろいろとご指摘、ご提案されているので、特に付け加えることはありませんが、角谷は『俳句の水脈を求めて 平成に逝った俳人たち』で、鬼房、鈴木六林男、三橋敏雄、古沢太穂、桂信子、金子兜太らについても論考しています。時代的背景、同時代の俳人たちを知ると立体的な視点も得られますし、鬼房の全体的な業績を知って俯瞰してみると、その中の『夜の崖』の時代の足跡をもっと具体的に論考できるかもしれません。
最後に、句集中の代表句を挙げていらっしゃいますが、なぜ評価が高かったのか鑑賞・論考されれば、ぐっと句集の魅力も増すかと思います。
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