評論集『季語を知る』
片山由美子の評論集『季語を知る』(角川文化振興財団令和元年六月刊)が出た。膨大な歳時記や文献を引証する労作であり、従来とかく伝統派の人々、俳人協会の人々がこうした研究を行っていないだけに注目させられる。
「はじめに」では、季語はどのように生まれたかについて、平安時代の和歌の題詠に行きつくとし、連歌からそれを引き継いだ俳諧時代になると、縦題(伝統的な季の題)から横題(俳諧独自の季物)が詠まれるようになり、近代以降の新たな時代を反映した横代が増えてきた。しかし近年の歳時記を見てみると定評を得ているある時代の歳時記の孫引きになっていることが多く、検証された形跡がほとんど見られないという。こんなところから、七十程の比較的新しい季語の由来を精緻に探り、その使い方の是非を論ずるのである。
一例をあげると、帯文にもあるが花と桜の違いを挙げ、桜はあくまで植物、花は形あるものだけなく、観念や情緒を示す言葉まであるとし、その由来を連歌の正花(連歌は雪月花の読み込まれる位置が決まっており、その内の花の座に使える言葉)にまでたどる。この違いが分かると、「花びら」は桜と限定する根拠がなく、季語として極めて弱くなると言う。まるで手品のような見事さだ。
従って、山本健吉が名著『現代俳句』で行っている
うすめても花の匂いの葛湯かな 渡辺水巴
の句の「葛湯に匂う塩漬けの桜の花のほのかな感じ」を、この花は葛の花の匂いであり、山本は、句にはない桜漬を持ち出してしまい、葛湯という冬の季語が無視されかねないと糾弾する。十字軍のような正当さで、山本健吉を否定しているのである。
私が思うのに季語の研究には二つの目的があるようだ。一つは、俳句の解釈をより正しくするためのもので右に上げた水巴の例だ。これはよい。第二は、季語を使うに当たって規範を与えるもので、片山氏は、「季語は科学ではない」というタイトルの下に「文学上共通の時間を持つために歳時記がある」という。しかし、古代の農民の時間的な生活基準として歳時記は生まれたもの(『荊楚歳時記』等)であり、それを俳人が借用しているに過ぎないことも忘れてはいけない。「科学」と「文学」との間に「生活」があるのだ。
だから、この考えに従って、片山氏は「従来の歳時記の季節の体系を組み替えようという発想は、俳諧以来の俳句の作り方を全く変えてしまうものである」と批判するがこれは私に対する批判のようでもある。実は、現代俳句協会は平成十一年に『現代俳句歳時記』を刊行したが、これは春を三月から始るものとしたものであった(ただ、二十四節気はそのままに残している)。この編集のメンバーに私も参加していたのである。
とはいえ私と片山氏はいつでも対立していたわけではない。平成二十三年に、俳句に知見があるとも思われない国土交通省から天下りした小林堅吾日本気象協会理事長が業績作りのために協会に日本版二十四節気の見直しを指示したとき(事務方は乗り気でなかったようだ)、共同して反対キャンペーンを張ったことがある。最後は気象協会の担当者も入れたシンポジウムを開き、この方針を撤回させたのである。この直後、二十四節気はUNESCOの「世界遺産」に登録されているから、世界で恥ずかしい日本版二十四節気を防いだ共同戦線の時期もあったのである。
おそらく問題は、季語問題は常に背景に俳句観が控えていることであろう。虚子には花鳥諷詠思想が控えており、秋桜子には西欧風の美意識の肯定が控えている。季語だけにこだわっているのではなく、俳句の理想とするものが何かを明らかにしたらよいと思う。
(下略)
※詳しくは「俳句四季」1月号をお読み下さい。
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