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2019年8月30日金曜日

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測200 湘子と登四郎――「鷹」と「沖」の分岐点は何か 筑紫磐井

●「鷹」は何故馬酔木から離脱したか
 山地春眠子の『「鷹」と名付けて――草創期クロニクル』(邑書林令和元年七月)が出た。
(略)

●「沖」は何故馬酔木に残留できたか
 私は、藤田湘子と比較して能村登四郎を思い出さずにはいられない。まさに、山地のクロニクルの終わった翌年の昭和四五年に、首都圏の市川で登四郎の主宰誌「沖」は創刊されたからだ。私は、山地と違い四七年に沖に入会しているから、リアルタイムで資料を見ることも出来たし、登四郎から話を聞く機会があったのでここで少し語っておこう。
 「沖」創刊に当たっては、登四郎は直前の湘子の失敗を充分に踏まえて慎重に準備を進めたという。創刊に当たって馬酔木の同人には原則声をかけなかった。例外は林翔であるが、翔は登四郎と学生時代以来刎頸の友の間柄で知られむしろ秋桜子の方から雑誌の編集長にせよと切り出したという。もう一人は鹿児島の学校から登四郎に憧れて上京してきた福永耕二で、教頭の登四郎が世話して自分の学校に勤務させていたからこれも秋桜子に異存はなかった。「鷹」と違って、登四郎の特別の縁故者以外いなかったのだ。こうした秋桜子と「沖」の慎重な蜜月関係は、湘子なきあと自ら馬酔木編集で忙殺されていた秋桜子が、自分の後継編集長として耕二を指名することによって万全の信頼関係となったと考える。
 では、何故湘子は失敗したのであろうか。これは、湘子の若き日の成功体験がむしろ禍したのではないかと思っている。
     *
 昭和二三年に若い人材を求めていた秋桜子の前に、魅力的な人材の藤田湘子が登場した。早速湘子を中心として「馬酔木新人会」が結成された。メンバーは大島民郎、少し遅れてきた能村登四郎、林翔らであった。やがてこの新人会は、新人育成の雑誌「新樹」を創刊する(「新樹」は秋桜子の句集名)。昭和二四年二月を創刊号とし、私の手元には二五年一月の通巻九号まで残っている。この雑誌の編集長が藤田良久(湘子)であった。貧しい若手たちが何故長期にわたりこんな雑誌が出せたかと言えば、間違いなく水原秋桜子の資金援助が入っていたためと思われる。
 また戦後馬酔木の若手指導は戦前からの篠田悌二郎(「野火」主宰)が行っていたが、この二三年突然に石田波郷が馬酔木に復帰、馬酔木編集長に就任し、若手たちは波郷になだれるように傾斜して行く。このためであろうか、篠田は馬酔木から離れて行く。一方で波郷は「新樹」の編集ぶりから、自らの編集長後継者に湘子を考えたのである。
 余談になるが、波郷はこの時二人の若手のうち、内政を湘子に任せる一方外政を登四郎に委ねたのではないか。登四郎に現代俳句協会の会員、幹事となる便宜を与え、最終的には金子兜太と現代俳句協会賞の共同受賞を果たせさせている(湘子には現代俳句協会への便宜は余り図っていないようだ)。
 言いたいのは「新人会」での秋桜子や波郷の湘子への信頼は、昭和二〇年代の特殊な状況から生まれ抜擢されたものだったと言うことである。例えばホトトギスでも、この時期、虚子によって次代のため清崎敏郎、深見けん二らの「新人会」が設立されている。
 しかし三〇年代は知らないうちに状況が変化してきている。その代表例が三七年の現代俳句協会からの俳人協会の独立問題である。戦前の人間探求派・新興俳句派が、金子兜太に代表される戦後派に警戒心を抱きだしたと言うことを忘れてはならない。
 優秀ではあっても湘子の無警戒な雑誌創刊の態度――特に遷子、星眠はその後の経緯から言っても、馬酔木の保守本流であった――を囲い込むことは軽率であると言わねばならなかった。湘子のために悔やまれるのである。
 もちろん、外政に向った登四郎も、一足先に現代俳句協会の分裂により多くの友人と断交することとなり、登四郎言うところの「冬の時代」を迎えるのであるが。


※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい。

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