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2019年4月26日金曜日

寒極光・虜囚の詠〜シベリア抑留体験者の俳句を読む〜⑩ のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅱ小田 保さんの場合(2)
 
   ナホトカ
 降ろされて焚くものもなし不凍港
*厳冬のナホトカ港に降り立った小田さんたち日本兵は、木や草を焚いて暖を取ることもままならず、足踏みをしながら放り込まれた運命におののいたのである。
 『シベリヤ俘虜記』P.170から、小田さんは昭和20年12月「ダモイ東京の夢を満載して、ソ連船は北千島を離れた。乗船後、数時間は、自称日本軍輸送司令官の指令が伝わってきたが、間もなくつぶされた。
 そして、続シベリヤ俘虜記P.58には、昭和20年12月9日ナホトカに着いたとある。

 捕虜われを拒否する凍土掘る手なし
*捕虜である私たち抑留兵を凍り付いてコンクリートのように固い土が拒否する。土を溶かすための焚火の草木も無かった。土は、非情にも金梃(ローム)を跳ね返す。ノルマが果たせなければ、懲罰食(減食)が待っている、捕虜の身の弱さをつくづく噛みしめるのである。

 自動小銃(マンドリン)抱くソ連兵より露語盗む
*小田さんはシベリアで捕虜として暮らすために、ロシア語の理解が必要だと考え、その言葉を監視兵との冗談などのコミュニケーションや作業場の老監督からせしめた「初等露英教科書」から習得したというのである。平和祈念展示資料館で抑留体験を語った方たちも作業のノルマの交渉に中国語やロシア語を覚えたと話している。部下をまとめていく立場でロシア語の習得は、その日のノルマの交渉、食料改善の要望のために、不可欠であった。

 襟章もがれ雪の華咲く防寒帽
*武装解除のときに日本軍の階級を示す襟章は取り上げられた。日本の軍人としての誇りは踏みにじられたが、代わりに防寒帽に雪の華が咲いていた。どの兵士の防寒帽にも平等に雪の華は咲いたのである。
 
 抱く屍まだぬくみあり雪やまず(続・シベリヤ俘虜記)
*シベリヤ抑留において、一年目の冬に飢えによる栄養失調と寒さとダニによる発疹チフスなどによって次々に同朋が亡くなった。作業中突然倒れた友を抱きかかえれば、まだぬくもりがある。呼びかけても、呼びかけても返事はもうない。声をかき消すように雪はどんどん降り積もっていく。
  
 厳冬(マローズ)へ飢えて郷愁のまなこ満ち
 俘虜死んで置いた眼鏡に故国(くに)凍る(続・シベリヤ俘虜記)
*眠っている間に死んだのだろうか、枕元に置かれた眼鏡は、霜で凍り付いている。それはまるで、夢見る故郷まで凍らせてしまっているようである。
同じ部隊で戦い、厳冬の夜は故郷の雑煮の事、牡丹餅のことなどを語り合った仲間である。

 結氷の砕(わ)れるある夜の脱走者
*ある夜すべての結氷を打ち砕くような銃声が鳴り響いた。脱走兵か。
抑留体験者の話では、ラーゲリ(収容所)に入った時に「絶対に逃亡するな。凍死をするから。」と言われたそうである。ラーゲリ(収容所)の四方には、監視塔がありガンボーイが21連発のマンドリンを持って見張っている。熱があって水を飲みたいため雪を取りにゆき、鉄条網の近くにうっかり近づき、銃殺された例もあったという。

 雪割草頭をだしくずれゆく階級  
 万葉集もつことも反動スウチャンへ
 シベリヤ鉄道果てなく西へ俘虜二人
  ※スウチャン=ウラジオストックから120キロメートル離れた奥地
*雪割草が雪を溶かし角ぐむころに、民主化運動により、旧日本軍の階級は崩れていった。日本への帰還船の出るウラジオストクまで行き、仲間はみんな帰還していった。しかし、帰還とならず仲間を見送る小田さんの落胆はとても深かったと思う。収容所で盛んになっていた、民主化運動の影響により、万葉集を持っているという理由で、仲間から密告され吊るし上げにあった。ウラジオストクから120キロメートルも奥地のスウチャンヘ送られることになった口惜しさや絶望感は、言葉で表すことはできない。

 入ソ二年目の冬を間近に帰還が始まった、しかし小田氏は、そのときに帰還とはならず、同じ作業班の一人の友と一緒に、元将校・憲兵・警察官ら150名と共にナホトカからウラジヲストックへ転送され、一緒だった友も昭和22年12月には帰還し、小田さんは石切山の指揮官(カマンジール)として取り残された。句の背景として、『続・シベリヤ俘虜記』P.62を引用する。

石切山で苦労をした豊田も、22年12月には帰還、私ひとりが帰還に乗りおくれたやけっぱちの新顔ばかりを率いて、ウラジオの第10分所に移った。ここでの民主運動は頂点をきわめていた。元下級将校を階級闘争の仮想敵とする策謀もあったのである。彼らが狙った小田は「反動も帰れるといった」「万葉集も持っている」と密告された。私が中隊の夜の集会で吊るし上げられた、その翌朝の集会で人民裁判にかけられた若い男と2人、炭鉱の町、アルチョム第12分所に拉致されたのである。(『続・シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日)
(つづく)
参考文献
『シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『続・シベリヤ俘虜記〜抑留俳句選集〜』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日

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