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2018年11月23日金曜日

【麻乃第2句集『るん』を読みたい】4 「るん」に心を研ぎ澄ます 仲 寒蟬

 まず表紙に度肝を抜かれる。これは句集なのか?誰か芸能人の写真集なのか?と。麻乃さんは美しい人だ、その美しいシルエットが海を背景に浮かび上がる。風がまとっている衣をなびかせている。ただ、どことなく違和感を感じるのは「るん」という句集名、それが何を意味するのか?その不思議な響き、浮き上がるような心地よさは表紙にとてもマッチしてはいるのだが。
 その疑問は「あとがき」を読むと氷解する。チベット仏教の瑜伽行の概念で、呼吸、息吹などを意味するサンスクリットのプラーナに当たるという。つまりは日本語の「気息」と取ってよいらしい。

  鳩吹きて柞の森にるんの吹く

 集中に「るん」が登場するのはこの句が唯一。そもそも「鳩吹く」という季語そのものがとても珍しい。角川の歳時記によれば「鳩の鳴き声をまね両手を合わせて吹くこと。山鳩を捕えるためとも、鹿狩の際、獲物を見つけたという合図に吹いたともいう」とあり、鹿狩との関連からか秋に類別されている。この句は鳩笛を吹いたら「るん」つまり大自然の気息のような風が吹いてきたとの意であろう。柞の森は一般名詞かもしれないが、秩父神社の境内の森の名称でもある。この句集にも秩父夜祭や武甲山が多く登場するので、ここはやはり秩父の森と考えたい。柞は万葉集では「ははそはの母」という枕詞として登場、その後も和歌の伝統の中では母を彷彿させる語として使われてきた。この句集には「母恋い」の句が多いので、その意味でも本句は重要な位置を占めている。
 母は俳人岡田志乃、父は詩人岡田隆彦、作者もあとがきでこの血統についてはポジティブに意識している。そこでまず家族を詠んだと思われる俳句から。

  花篝向かうの街で母が泣く
  言ひ返す夫の居なくて万愚節
  身ぬちにも父母のまします衣被
  病床の王女の如きショールかな
  我々が我になる時冬花火
  愛しさと寂しさは対ゆきうさぎ


 母の句は多いが花篝の句はどことなく実在の母というより童話の世界のようだ。それは「向かうの街で」という漠然とした、ちょっと突き放した言い方による。私は花篝の下で夜桜を見ているのに母はどこかで泣いてゐる、その後ろめたさからこのような表現となったものか。
 もう一句、ショールの句も母を詠んだもの。前後の俳句から作者の母が入院中であることが分かるからだ。それにしても病室の中で「王女の如き」ショールと聞くだけでその人の様子、性格まで伝わってくるし、作者はそういう母親を誇りにし頼もしく思っているらしいことも伝わってくる。
 夫の句は普通の夫婦でもあるちょっとした寂しさ。衣被の句には先に書いた作者の父母に対する意識が色濃く出ていて特徴的。また冬花火とゆきうさぎの句はその季題を詠んでいながら家族のことを思っている、そんな気がする。

  枝垂梅驚く口の形して
  たましひは鳩のかたちや花は葉に
  気を付けの姿勢で金魚釣られけり
  楊貴妃の睫毛の如く曼珠沙華
  反芻し吐き出してゐる冬の海


 喩えや見立ての面白い句を並べた。枝垂桜の枝の形だろうか、驚く口の形と言われるだけで見えてくる。魂は火や茄子に例えられたのは見たことあるがまさか鳩とは。言われてみればどちらも空を飛ぶ。金魚が釣られるのを「気を付けの姿勢」とは言い得て妙。金魚の哀れさも含まれていてこの句は集中の白眉だ。曼珠沙華は女性との関連で詠われることが多いけれども「楊貴妃」と特定したのがよかった。しかも睫毛とくれば誰しもが納得。冬波の昏さ、冷たさ、単調さを反芻と嘔吐に見立てたのもまた見事。
 作者はあちこちに足を伸ばして色々なものを見聞きし、体験しているからだろうか、俳句にとって基本ともいえる「気付き」の質が高い。

  次こそのこその不実さ蚕卵紙
  朝曇河童ミイラの尖りをり
  ナナフシの次に置く手に迷ひたり
  夜学校「誰だ!」と壁に大きな字


 蚕卵紙はカイコガに卵を生み付けさせた厚紙で、枠内に番号が振られ品種名などが記入してあり、この形のまま養蚕農家に販売されたという。作者は普段我々がさりげなく口にしている「次こそ」という言訳に不実のにおいを嗅ぎつけ、その発見と取り合せるに蚕卵紙を以てした。なぜ蚕卵紙が不実と結びつくのかは筆者にもよく分からないが、女工哀史の悲惨さなどが作者の頭に過ぎったのかもしれない。河童のミイラは全国各地に伝わっているが、多くは江戸時代の民衆が欲した怪異への答えとして偽造されたものだ。本物かどうか見極めようと目を凝らしている作者の姿が浮かぶ。ナナフシの句はまことに面白い。誰もナナフシの気持ちなんて分からないし、第一気持ちというのがあるのかも分からないが、こう言われるとあのナナフシのぎこちない動きは迷っているとしか見えなくなる。夜学校の落書き、作者にかかれば何だか形而上学的な意味を持っているように思えてくるから不思議だ。

  蛇苺血の濃き順に並びをり
  鮭割りし中の赤さを鮭知らず


 発見は見方によっては恐さにつながる。血の濃い順とは例えば一家の中心人物(多くは父か祖父)の血を最も多く受け継いだ者ということになろうか。理論的には兄弟はみな遺伝的に同等だが、ここでは性向や人柄などのことを指す感じがする。ただ蛇苺が置かれるとたちまちバンパイヤの一族の話か何かのように思われてくる。鮭の句は哲学的とも取れるが鮭を割った図が提示されているので、先の蛇苺同様どことなくおぞましい内容にも感じられるのだ。
 このような作者の俳句の傾向は単純に「詩的」と片付けるには入り組んでいる。誰もが見落としそうな事柄、ちょっとした発見を大切に、冷徹かつ温かい目で世界を眺めている。それこそ「るん」つまり大自然の気息に耳を澄まし感覚を研ぎ澄ますということなのだ。そうすれば自然とも人工物とも、家族とも見知らぬ人とも分け隔てなく繋がることができる。

  人とゐて人と進みて初詣

 例えばこの句、初詣の行列は思うままにならず、人の流れに乗るしかない。その初詣の本質を「人と」いて進むということに見出した。人はそれぞれ個であるがここでは個としては流れず集団となって初めて進む。世界もまたそのようなものではないのか。人といて繋がって進んでいくからこそ世界は動く。
最後に触れられなかったが好きな句をいくつか挙げて稿を終えたい。

  落雲雀引き合ふ土の重さかな
  放射線状屋根全面に夏の雨
  鷹匠の風を切り出す脚絆かな
  ポインセチア抱へ飛び込む終列車
  着膨れて七人掛けの浮力かな
    削られし武甲の山よ天狼星



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