雪柳水の流るる方に驛
川沿いの駅を思う。流れはそこまで速くない。駅は多くの人生が浅く交差する場所だ。しかし空港や船着き場と比べるとせわしなく、どこか淡白でクールな印象を受ける。リクルートスーツを着こなせない就活生は、保育園帰りのかしましいママ友たちを見向きもしなかったりするだろう。この句はそんな駅を少しだけ遠くから望む。川の水はただただ流れに従っているだけで、川の中の石や魚を隠すこともない。そよそよときらめきながら吹かれる雪柳も、世界の他者には干渉しない。あるがままの風景を書きとることは、そのまま世界の肯定に繋がる。
眠兎の句は口ずさみやすい。だから、市民生活の違和感の表出は韻律ではなく、物と物とのぶつかり合いによって達成される。
紙飛行機雛のまへを折り返す
雛と紙飛行機という、並行に存在していた古いエンターテイメントが出会う。「過ぎる」ではなく、「折り返す」に構成の妙がある。雛の精神の気高さや、紙飛行機ごときでは近づけないのだという主人公のまなざしも背後にあるかもしれない。雛に速いものが通っても似合わないので紙飛行機のペラペラ感もあいまってきて楽しい。この句に比べると、隣の二句「雛の客箪笥をほめて帰りけり」「啓蟄や叩いてたたむ段ボール」はユーモアも連想も類型的である。
朝寝して鳥のことばが少しわかる
金魚田の金魚や泥に潜りたがる
定型への意識を基本として、上六や下六のもたつきや逡巡を楽しむ。
俳句らしく見える「パターン」も意識していそうだが、その意識は類型を免れるための意識である。「少し」は句集の中にこの句しかない。
Amazonも楽天も好き種物屋
菊人形肩より枯れてゆきにけり
「好き」の口語の弾んでゆく感じも、文語のどっしりした構えも眠兎は好む。
うかうかとジャグジーにゐる春の暮
さばさばと茅の輪くぐりてゆきにけり
やすやすとまんぷく食堂に西日
たつぷりと落葉踏みたる影法師
副詞で始まる句は四句あった。茅の輪の句と西日の句が、素材・季語に対して裏切りがあり、この裏切りが鋭くて爽快で心地よい。茅の輪の句は、ありがたがって茅の輪をくぐる人もいるだろうに、そうではない人に注目したところが俳句らしい。まんぷく食堂は三重県の近鉄宇治山田駅から徒歩一分の距離にあるB級グルメ「唐揚げ丼」で有名な店だが、そんなことを知らなくてもまんぷく食堂にさしかかるオレンジ色の光線が思い浮かぶ。ここで「夕焼」ではなく「西日」なのは、プラスではなくマイナスイメージも「まんぷく」に織り交ぜたかったのであろう。「西日」の方が「やすやすと」に響く。飽食の時代、エクスタシーである「食」を終えるときに立ち上がる感情は「太ることによる後悔」だけではなく、人間の業をも思わせる。
大聖堂までの原っぱ日脚伸ぶ
バレンタインデー軽量の傘ひらく
カッパ巻きしんこ巻春惜しみけり
峰雲や輓馬寄り来る診療所
出典者D冬空に本売りぬ
歳晩や尻ポケットのドル紙幣
ひと揺れに舟出でゆけり春の虹
丸洗ひされ猫の子は家猫に
雛の家綺麗にパンを焦がしけり
春風や開港を待つ滑走路
即物的描写に徹した句と、機智・把握を開陳している句のバランスは六対四といったところだろうか。「モノ俳句は素材で勝負」「いや素材だけではだめだ。構成・何に詩を感じたかの提示が必要だ」という二つの価値観を行き来させている。
秋深しギリシャ数字の置時計
つまり、手札がいろいろあるので飽きない。
黒岩さん
返信削除眠兎さんの観賞文、拝読いたしました。
細かに分析されてをり、独りで読んだ時よりも
より、句への親しみを感じました。
ありがとうございます。
大関博美(のどか):ブログ名ラスカル