『鴨』を読みながら、思うことが二つあった。ひとつめは、そのパースペクティブの自在さについて、である。
見えてゐて京都が遠し絵双六
句集冒頭の一句。今日のすごろくは多種多様な題材のものがあるが、絵双六といえば「東海道五十三次」、日本橋を出て京都までを行く廻り双六が浮かぶ。指でたどれば数センチの場所にある「あがり」の京都が、数十コマを経なければたどり着けない、まさに「見えてゐて遠い」状態だ。床に広げて遊んでいる、賽の目がはかどらず、進みの遅さに辟易している尺の「遠さ」と、平面世界の東海道を進む、双六の「中の距離」の「遠さ」を二重写しに読むと、より楽しい。
蛇穴を出てゑがかれてゐたりけり
こちらも二次元と三次元の問題(?)が同一視されているようである。蛇の絵を描いているか、描かれた蛇を見ているのか。穴を出ようとして(あるいは全身が出て)その結果描かれてしまった、とは、なんとなく「星の王子さま」のウワバミの話を思い出してしまった。「ゑがかれてゐたりけり」には、たとえば絵の見事さに驚く、というような趣ではない、「穴を出てしまったから絵になってしまった」「穴を出なければ描かれなかったのに」というような「あれあれ」な感興をおぼえる。
早蕨を映す鏡としてありぬ
庭の片隅か、林の中か、とにかく芽吹く蕨を見つけた。それらがうつる水の存在を「映す鏡」と描写している。水の素性は鏡として提示されているだけで、潦なのか、小川なのか、全貌は要として知れないが、「鏡」なのだから、澄んで静かに留まる水なのだろう。「~としてありぬ」という提示のされ方から、眼目は早蕨から名もなき止水の側へ移りゆく。その水は、春を待ち、早蕨のためにあったのだろう、と、水に存在意義を与えているようでもある。
砧打つ千年前の科挙に落ち
砧打ちの地味な、力のいる、根気のいる仕事について、この労働は、千年前の科挙に失敗したせいである、というニュアンスのある結句になっている。罰ゲーム的な感覚のようでもある。たいへんな時間の飛躍が「砧」と「科挙」のあいだに流れていることが、もうおかしい。因果によってやらなければならないのだと思わねば、やっておれぬほどに、必死に叩いているのだろうか。
隠れ住む人かがんぴの花咲かせ
和紙の原料となる雁皮は栽培の難しい木だが、野生の木を森林で目にすることはそれほど珍しくはない。やせた山野にも育つ地味な低木で、生育は遅く、白い地味な花が咲く。
「隠れ住む人」の表現から、里山あたりの、居住地を少し離れた、人目につかないあばら家を想像させる。人気のなくなった家屋に寄り添うように自生する花を、「咲かせ」る人の不在のアリバイとして描いているのがおもしろい。たった今はいないけれど、そこに人がいるのだろう、という、「早蕨を映す鏡としてありぬ」同様に、眼目そのものを直接描かず、焙り出すかたちで存在感を与えている。
このように、二次元/三次元、在/非在、現在/過去を自在に持ち寄りながら、『鴨』の句は「見たままを詠む」という作句上達法最大の「嘘」を軽々とクリアしてみせている。平明に、「ありのまま」言っているっぽく見せながら、実際は観察から内省を通って一句が成り立つ間に、とんでもなく遠いところまで行って帰ってきているのが、これらの句の見所だ。
内部機関を循環して濾過された水が、器に巧妙に、整然と配されているかのような作りは、あまりに手際がただしく、突発的なところを伺わせないがために、その内省が「仙人的」とか「達観」といった印象を与えているのだろう。
ここでもう一つの思うこと、「挨拶性」を挙げたい。
花衣そのまま鍋の蓋開けて
久女は「花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\」と、帰宅次第ちゃっちゃと脱いでしまうが、ここでは装いそのままに鍋の蓋を開けている。「そのまま」が筆者との距離と少しの時間経過を伝える。現在の花衣の主はよそゆきのまま鍋を構っちゃってるなあ、と微笑ましく見つめているようだ。「ぬぐやまつはる」の鬱屈と「そのまま鍋の蓋」の鷹揚さを対比するのは深読みかもしれないが、先行句を思うと、より鷹揚さがいとおしくなってくる。
長身の千利休が果てたる日
千利休の忌日は旧暦の二月二十八日、現在の三月二十八日にあたる。利休のものとされる現存する甲冑の寸法から、茶人は180センチ余という、当時としては相当に大男だったであろうことが伝わっている。その、おおきなおおきな利休が、太閤秀吉から切腹を言い渡され果てた日は、春たけなわを待つ時期の一日だった。この春の日に、かつて、物理的にも、文化的にもおおきな男が果てた。その欠落を、「そういうことのあった日」としてのみ描いている。忌日の性格を自然描写に語らせるのではなく、春の、今日のこの日が「そういう日」であると語る、逆説的な構造を持ったこの句は印象深い。
これらの句は、現在性を厳格にたもちながら、さらにおおいなる時間への挨拶を内包しているように見える。
今日のこの日に、無数の「かつて」が絡まっている。「かつて」を持ち重りのする荷物としてでなく、あくまで軽く手に取って、現在に混ぜてみせるのが、麒麟流ではないだろうか。
「軽さ」というキーワードは、「身軽さ」として、前述したパースペクティブとも密接に関わっているように思う。
焚火して宇宙の隅にゐたりけり
句集の中から特に好きな句をひいた。集中には他にも焚火の句(「栃木かな春の焚火を七つ見て」「俊成は好きな翁や夕焚火」など)があるが、どの焚火もまったくといっていいほど象徴性を帯びていないところも、麒麟氏らしい。
この句には、足下の小さな焚火から、どんどんカメラがひいていき、関東平野、日本、地球、太陽系、とどんどん遠ざかっていくイメージを持つ。「宇宙の隅」という把握が、火を扱う主体を、非常な遠さから見守っているようだからだ。
もし、いつか、どこか別の銀河から宇宙人がやってきたとして、麒麟さんなら、「やあこんにちは、どちら様ですか」と、焚火を囲む輪に迎え入れてあげるのではないだろうか。
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