ずっと昔から麒麟さんを知っている気がする。というのは俳句ウェブマガジン「スピカ」の「キリンの部屋」の初期からの読者だったからだ。「キリンの部屋」はご存じの通り、麒麟さんの日常や周辺を描いた「枕」から始まる。長年その「枕」のファンだった。なので、好みの女性像(いわゆる菩薩顔)がわかるし、苦手なこと(珍しい料理を食べ慣れないところで食べるとか)も知っている。アルファベットで表される友人の俳人たちもだいたい想像できる(ただし、現実感があるかといえば、夢の中の話のようなエピソードが多い)。名人の落語家のように面白い「枕」をさっと切り上げて本題に入るスタイル、本題へのツッコミのようなコメントもまた面白かった。
去年の秋、上京する際に連絡を取ってお食事することになった。ずっとわくわくしていたし緊張もしていたのだが、お目にかかると「ああ、知っている麒麟さんだな」と思った。「キリンの部屋」の麒麟さん、そのままの正直で楽しい人だった。
「正直な印象」。それはその後送って下さった第二句集『鴨』でも感じた。虚勢を張ったところがない。丁寧に趣向を届けている。
ささやかな雪合戦がすぐ後ろ 麒麟
ささやかだな、と思う。「ささやかな」と書いてあるのだからそうなのだけど、ささやかな賑わいをただ察知している姿、自分はその賑わいには加わらないという距離の取り方が、孤独感、というと言い過ぎかもしれないが、「ひとり」な感じを浮き上がらせる。
こういう「ひとり」な感じの句は割と多い。
栃木かな春の焚火を七つ見て 麒麟
この句も「ひとり」な感じがする。「見て」という感覚が個人的だということもあるかもしれないが、「栃木」という土地の響きが《栃木にいろいろ雨のたましいもいたり 阿部完市》などの先行句のイメージは引きつつ、読者には必然性がわからない個人的に思い入れのある場所のように感じるからだろう。
もちろん「俳句」という形式が「ひとり」の感慨を表出するもの、ということはあるかもしれない。しかし、その感慨がささやかであればあるほど個人的な印象を与え、読者はいわゆる「共感」とは別の驚きと興を感じながら句の世界に入っていくことになる。
嫁菜飯宿の暗さも気に入つて 麒麟
大鯰ぽかりと叩きたき顔の
紫陽花や傘盗人に不幸あれ
夕立が来さうで来たり走るなり
灯籠の苔の感じも秋らしく
冬の雲会社に行かず遠出せず
学校のうさぎに嘘を教えけり
「気に入つて」という好み、「叩きたき」という欲望、「不幸あれ」という願い、「走るなり」という勢い、「苔の感じ」という大雑把な把握、「行かず」「せず」という意思、「嘘を教えけり」という面白がりよう、どれもささやかで個人的で「ひとり」という感じがする。
麒麟さんの「ひとり」感は寂しそうではない。自分の心の動きを楽しげに明瞭に描いているからだろう。
きらきらと我の思考や桜餅 麒麟
この自己肯定感。「ひとり」であることのきらめき、美しさを屈託なく受け入れることによって、「ひとり」であっても暗くも寂しくもさほどない開かれた世界と感応できるのだと思うと、すこし羨ましくもある。
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