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2017年12月8日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(7)いかに子規は子規となったか⑥/筑紫磐井

【漢詩・短歌・俳句・漢文・擬古文・雑文】
子規は自らの作品を記録をするだけでなく、それらを何回も整理編纂して選集・全集にすることに異常に執着していた。たとえば一番早いのが、松山を去る直前の明治15年に「自笑文集」を作成しているが、これは明治11~12年の小学校在学中の作文27編に教師の評語を付けて写している。
こうした自作の編纂は、おそらく予科時代にその体系を完成させたものであるらしい。子規のエッセイ「筆まかせ」(明治17年から23年までの執筆した雑文をまとめたもの)の明治22年の記事「自著」で、筐底の反古を取り出し分類し年を追って1冊づつにしてみたと述べている。子規はこれを、①「詩稿」②「水蛙花鶯」③「寒山落木」④「文稿」⑤「枯れ野」⑥「無花果草紙」と名付けたという。現在残っている子規の稿本と比較してみると興味深い。

①「漢詩稿」秋風落日舎主人(子規)編の漢詩集.(明治11年~29年):「青苔黄葉」の題あり
②「竹乃里歌」竹の里人(子規)編の歌集(明治15~35年)
③「寒山落木」獺祭書屋主人(子規)編の句集(明治18~29年。浄書以前の俳句が「俳句稿(明治31~34年)」として残っている) 
④「文稿(3,4のみ)」漢文集(明治14~22年の松山中学在学中の中学校の作文と明新社会稿、共立学校、東京大学予備門の課題作文)
⑥「無花果草紙」雑文集(明治15年~24年の松山中学から文科大学までの雑文記録。同種の文集を子規は「手つくりの菜」(明治17年~26年)としても編纂しているが、別に分けた理由は分からない。「筆まかせ」自身もこの系列と考えることが出来るし、さらに晩年の『松露玉液』『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』へとも続くものであろう)

ほとんどすべてが符合している。少し付け加えれば、おそらく「自著」に書いてある「水蛙花鶯」はその後名称を変えて「竹乃里歌」となったものと考えられる。⑤「枯れ野」だけはその行方も分からないが、本科時代に子規の執筆した「(無可有洲)七草集」が参考となるだろう。これは後述するように七つの文体をかき分けた超絶技巧的エッセイであるから、ここにあって列記されてないものは何かを推測すると見当がつくわけで、どうやらそれは擬古文集である可能性が高い、「枯れ野」という標題も擬古文集にふさわしいようである。実際子規は、擬古文が得意であり、日本新聞に入社したあとも紀行文のかたちで膨大な擬古文を書いている。やがてこれらは、子規自身によって擬古文を否定し写生文を提唱することにより子規の文学形式の大きな流れとなっていく。
このように予科時代において自分の過去の作品を分析分類し鳥瞰した結果を、子規は生涯を掛けて設計図通りに進めていったことが分かるのである。

最後に予科時代の子規の交友に触れておく。興味深いのは子規とその友人たちが行った人物評である。松山出身の24人を評した「郷党人物月旦評論」(17年11月)がそれであり、予備門の友人たち7人を評した「七変人評論」(19年1月)もそうである。これらは共同で作成し、回覧雑誌のように回覧してメンバーの閲覧に供したものである。やがて、「筆まかせ」の「交際」(明治22年)でその決定版と言うべき一覧ができあがっている。

【解説】
何故こんなことを縷々と書いているかと言えば、子規はこの時点で誰にも似ていないからである。子規の目の前には漢詩・短歌・俳句・漢文・擬古文・雑文が等しく並んでいた。決して俳人子規としては存在していないのである。未だ子規は、漢詩・短歌・漢文・擬古文・雑文と決別していない。俳句とも親炙していない。未分化の子規がいるばかりなのだ。
それは、その時点で建築家の道や、哲学者の道を歩むかもしれなかった漱石と同様なのである。

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