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2017年4月16日日曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】  北斗賞 150句  / 大塚凱



どこか、なんとなく、ぼんやりと、うすうす、他人事。そんな印象を受ける。この作品の大きな魅力を挙げるとすれば、それは“他人事感”である。

 なぜ僕は、他人事らしさを感じたのだろうか。もちろんそうではない句もある。しかし、ひとつの作品群や連作(本作品は「一五〇句作品」であって「一五〇句連作」ではないが、作中には連作かのように感じられる部分がある)を読んで「何か」を確かに感じるのであれば、最大公約数としての傾向、あるいは抽象される方法論、のようなものが存在しているということだろう。作品評においては、一句一句の良し悪しについての(特に良い点についての)“選評”という形式になりがちだと思われるので、価値判断というよりは、「他人事の文体」とは何か、について考えたい。断っておくべきことは、本稿の目的は俳句を「西村麒麟の俳句」とその補集合の境界を探るものではなく、あくまで「西村麒麟の俳句」がどのような傾向の基に成り立っているかを考え、その手法を示唆することにある。

 俳句が一般に、作者・作中主体の一人称のもと書かれると想定すると、当然ながら「主体が一人称のもとで自己/他者を描写する」という構造が生ずる。その際、一人称が前提であるとすれば、その作中の事象は描写という行為に先立つ、と錯覚される。したがって、一人称で表現を行うということは、すなわち、前述の時差をもって「事象がその眼前に生じた主体」と「事象を表現した主体」が分化することを導くかのように感じられる。そもそも、このような前提において、俳句は「どこか他人事」になりうる構造を秘めている。
 しかし、すべての俳句がそうであるとは到底感じられない。可能性は可能性であって、存在を実証するものではない。とすると、殊に西村麒麟の句を「どこか他人事」たらしめている手法が存在するはずである。


  日射病畝だけ見えてゐたりけり 
  踊子の妻が流れて行きにけり 
  文鳥に覗かれてゐる花疲れ

 一つには、「見える/見られる」という距離感の効果があるだろう。「見える/見られる」という関係は、「嗅覚」「聴覚」「触覚」といった他の身体感覚よりも主体と客体の間に隔たりがあるように感覚されるのではないだろうか。それはつまり、比較的身体性の薄い知覚であるということだ。これは、視覚による知覚が文芸における表現の前提になっているように直感されることと関連するかもしれない。「景」という一種の用語は、俳句の視覚性を示唆している。大切なのは、「見える/見られる」という関係は主体的な関係性ではないということだ。対照的に「見る」という行為は、たとえその契機が外発的であったとしても、主体的な関わり方であると考えられる。西村麒麟の表現においては、あくまでも主体的ではないような関わり方で作中の事象を表現している。


  春の日や古木の如き鯉を見て

 当該句は「見て」と表現しているものの、多くの読者の解釈は「(意識的に)鯉を見てしまう」というよりも、「鯉が見えている」という「景」を想像するのではないだろうか。そう想起させるのは「春の日」という季語の関わり方に因るかもしれないが、そのような全体において、これは「見える」という関係性である。このように、西村麒麟作品の他人事らしさの一部は、一人称の構造を前提としながらも「見える/見られる」という主体的でない表現を手法としていることに因ると考えられる。

 また、敢えて描写に踏み込まないという表現傾向も指摘されうる。 

  水中を脅かしたる夏の雨 
  寒鯛のどこを切つても美しき 
  散りやすく散りゆく彼岸桜かな

 一句目、後藤比奈夫の〈夏潮に雨は一粒づつ刺さる〉と比較すれば、描写の「踏み込まなさ」は明らかである。続く句における「美しき」も描写といえば描写だが、踏み込んではいない。ここを「美しき」で止めている書き癖。「散りやすく」という抑え方も同様である。やや言い方に語弊があるが、低密度な描写とも言えるだろうか(低密度であることが落ち度である、と言っているものではない。その句におけるバランスが重要である)。

  目が回るほどに大きな黄菊かな
 

 となると、一歩踏み込んだように感じられるが、あまりこのような身体性への志向は強くない。

 加えて、殊に僕が興味深かったのは、オノマトペやそれに準ずる和語的な副詞には「抜け感」を演出する副次的な効果があるのではないだろうか、ということである。以前、僕は副詞について「意味上の効果」とともに、韻律にゆとりを与えるという副次的な効果について書いた(「長い午後 郡山淳一について」, 週刊俳句, 第四九七号, 二〇一六年一〇月三〇日)が、それに加えて前述の効果の指摘できよう。オノマトペは音韻とそれによるイメージによって、用言をもちいた描写の代替となる。それは、確かに「音韻のゆとり」と「描写の踏み込まなさ」の恩寵であろう。


  盆棚の桃をうすうす見てゐたり 
  しろしろと頭の小さき茸かな 
  八月のどんどん過ぎる夏休み 
  大鯰ぽかりと叩きたき顔の 
  鮟鱇の死後がずるずるありにけり

 このようにして副詞のゆるやかさを援用し「抜け感」を獲得しているが、西村麒麟の作風の基にあるのは、むしろ「意味」からの要請である。実景の範疇で「意味」と「調子」の均衡を図ろうとするとき、まして一物で仕立てる場合、同一語や近接した単語のリフレインという手法へ走ることとなる。「見える/見られる」という関係性のもとで表現を構築する場合、一句の口誦性を非意味な押韻などで演出することはその実景という“制限”のもとで困難となる。この制限のもとでは、音韻のうえで隣接した言葉は意味としても隣接する傾向が強くなり、口誦性を付与する手段としては同一単語のリフレインが現実的な手段となるであろう。

  青々と黒々と川秋の風 
  桃買つて林檎を買つて善光寺 
  紫の一つ一つが鳥兜 
  秋の金魚秋の目高とゐたりけり
  白鳥の看板があり白鳥来 
  烏の巣けふは烏がゐたりけり 
  烏の巣烏がとんと収まりぬ 
  蛍の逃げ出せさうな蛍籠

 本作品には、このような手法に基づく俳句が多い。実際に、前掲の一句目から四句目までは作中で隣接しており、後ろの四句のようにやや類型化した発想を感じざるをえない。これは一句一句の水準の高低の問題ではなく、複数句作品あるいは連作としての問題、ひいては作家としての問題である。

 ここからは僕の価値判断と希望的観測を含む評となるが、「意味」への意識は、叙述における「因果」となってしまってはいけない。

  小さくて白磁の馬や春を待つ
 
  夕立が来さうで来たり走るなり 

 決して不用意な句であるとは感じないが、これまでの取り合わせ例が蓄積された現代においては、「小さく」「白磁」「馬」「春を待つ」の間の関係性がやや透けて見えてしまうのではないか。因果への安住を打破したところに、西村麒麟としての次の一手があるような心地がする。

  早蕨を映す鏡としてありぬ 
  水出せば水に集まる朧かな

 たとえば、僕はこれらの句に、これから、を感じる。その「他人事っぽさ」がより高い次元へ昇華した一例であると思う。次なる句集が、さてどのような次元へ踏み込むのか、僕には興味がある。でも、麒麟さんはジゲンとかショウカとか、考えている僕をちょっと滑稽に思ってるタイプだろうけど。



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