【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2017年3月31日金曜日

第63号 

●更新スケジュール(2017年4月14日・28日

二十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞‼
恩田侑布子句集『夢洗ひ』

第4回攝津幸彦記念賞 募集‼ 》詳細
各賞発表プレスリリース
豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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平成二十九年歳旦帖

第八(4/8) 岸本尚毅・浅沼 璞・佐藤りえ
第七(3/31) 木村オサム・水岩瞳・望月士郎・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(3/24) 小沢麻結・池田澄子・陽美保子・内村恭子・小野裕三
第五(3/18)  飯田冬眞・小林かんな・山本敏倖・林雅樹・原雅子
第四(3/10)仲寒蟬・曾根 毅・松下カロ・椿屋実梛・前北かおる
第三(3/3)杉山久子・田中葉月・石童庵・真矢ひろみ・ 竹岡一郎
第二(2/24)仙田洋子・ふけとしこ・五島高資・堀本吟・渕上信子
第一(2/17) 夏木久・網野月を・坂間恒子・渡辺美保・神谷波



新シリーズ 【平成アーカイブ】 …筑紫磐井


「街」とその鑑賞②(創刊号・第3号を読む) …筑紫磐井 》読む

「街」とその鑑賞①(総合誌を切る)・・・  筑紫磐井  》読む




  【抜粋】
<「俳句四季」4月号> 俳壇観測 
平成俳壇の終了と宗教の時代
―最近流行のアニミズムを考える
…筑紫磐井  》読む

<「俳句四季」2月号> 最近の名句集を探る
恩田侑布子『夢洗ひ』より 
…筑紫磐井、大井恒行、小林貴子、齋藤慎爾 》読む

  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる




    <WEP俳句通信>


      WEP俳句通信 96号 現在発売中 ・ 97号(4月15日発売予定)






      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
        • 3月の執筆者 (柳本々々 ) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子・
           好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 

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          【短詩時評38】
          Tanshijihyo 38/758/yagimotomotomoto



          【短詩時評37戒】
          なかはられいこの覚悟、小池正博の十戒、表現者の決意
          …柳本々々 》読む

          【短詩時評36試合目】
          「嗚呼、みんなシノニムだ、短歌の対語は何だ?」
          …柳本々々 》読む


          【短詩時評さんじゅうご】
          歌人・鳥居さんのドキュメンタリーを観ること-ひらがな、から-
          …柳本々々 》読む



          あとがき   》読む


          冊子「俳句新空間 No.7 」発刊!







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          『いま、兜太は』 岩波書店
          金子兜太 著 ,青木健 編
          寄稿者=嵐山光三郎,いとうせいこう,宇多喜代子,黒田杏子,齋藤愼爾,田中亜美,筑紫磐井,坪内稔典,蜂飼耳,堀江敏幸.




          俳句年鑑2017年度版・年代別2016年の収穫に筑紫磐井執筆‼
          「二つの力学」筑紫磐井
          【紹介作家】池田瑠那・高瀬祥子・阪西敦子・西山ゆりこ・大高翔・日下野由季・津久井健之・前北かおる・北大路翼・藤本夕衣・鎌田俊・冨田拓也・杉原祐之・村上鞆彦・椿屋実梛・大谷弘至・藤井あかり・杉田菜穂・高柳克弘・涼野海音・中本真人・松本てふこ・抜井諒一・音羽紅子・伊東裕起・小川楓子・神野紗希・西村麒麟・佐藤文香・山口優夢・野口る理・中山奈々小林鮎美
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          特集:「金子兜太という表現者」
          執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
          、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
          連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


          特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
          執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
            


          特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
          執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

          筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
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          【抜粋】<「俳句四季」4月号> 俳壇観測 平成俳壇の終了と宗教の時代 ―最近流行のアニミズムを考えるー 筑紫磐井



          ○平成を回顧する
          新年の新聞によると、天皇の退位の意向と政府の検討を踏まえて、平成三一年一月一日に改元されるらしいという。現在平成二九年だが、残すは平成三〇年しかないのである。さすれば、「平成俳壇」「平成俳句」という言葉が妙に差し迫って感じられる。
          時代を振り返ってみよう。「明治俳壇」(子規・碧梧桐・虚子)・「大正俳壇」(蛇笏・石鼎・水巴・普羅)・「昭和俳壇」(前半の4S・新興俳句・人間探求派の時代と、後半の社会性俳句・前衛俳句・伝統俳句の時代)とはっきり我々の目にはその俳句シーンが浮かび上がる。それぞれの時代を感じさせる句があるが、しばらく昭和俳壇の句から例を掲げてみよう。

          降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男 
          死ねば野分け生きてゐしかば争へり 楸邨 
          六月の女すわれる荒莚 波郷 
          おそるべき君等の乳房夏来る 三鬼 
          水脈の果炎天の墓碑置きて去る 兜太 
          紺絣春月重く出でしかな 龍太 

          しかし平成俳壇はそれらと比べて、どれほど印象深いものとなるだろうか。我々には、平成俳壇卒業までにあと一年しか余裕がない、卒業試験を控えた学生の心境が浮かび上がってくる。あと一年余で、どれほど立派な成果が上がるというのだろうか。

           例えば平成の風景メニューを並べてみよう。湾岸戦争、オウムサリン事件、9・11テロ、IT革命、政権交代、東日本大震災、孤老死、少子高齢化、等々であるが、これらの時代の匂いを残した俳句はちょっと思い浮かばない。総じて、昭和以上に暗いイメージが漂ってしまう気がする。

          ○宗教の時代

           我々は、三〇年前を思い出すと、昭和天皇の崩御とそれに伴う即位のためのさまざまな儀式を思い出す。もちろん今回は崩御とは違うからその儀式の内容も違うが、あの時代のことを思い出すと、歌舞音曲禁止など非日常的な禁制が東京を覆っていた。今の若い人たちには予想もつかない時代だ。あのとき以来宗教の時代が訪れたような気がする。

          実は、昭和はそれなりに合理性の時代であった。それに対し、平成に入ってからはスピリッチャリズムとかパワースポットとか都市伝説とか、少しずつ不可解な時代となっているようである。これこそが平成の特色だ。

           アニミズムの流行もそうしたことに関係なくはなくはないようだ。アニミズムを非合理というと批判を受けそうだが、かつて古代日本全体がそういう時代を持っていたことは否定できない。シャーマンやイタコが跋扈していた時代だ。ならば平成俳壇はアニミズムの時代といってもよいかも知れない。


          (中略)

           小澤と中沢は、特に蛇笏にアニミズムの代表を見ているようだが、私は、数多くいる俳人の中では、原石鼎こそが最もそれにふさわしい作家ではないかと考えている。若くして吉野に隠棲して、神秘的体験を重ねつつ(自然に神を見ていた)、初期のホトトギスを代表する作家となったが、昭和となってからは精神を病み、最後は自ら神を名乗っている。一見、アニミズムは幸せな信仰のように思えるが、石鼎は決して幸福な作家でなかった。壁に向かって独語独白している老後の石鼎を描いた岩淵喜代子の著作(俳人協会評論賞受賞)は鬼気迫るものがある。神に囲まれた石鼎がなぜ不幸だったかはわからない。

          一方アニミズムに一番遠いのは、合理主義に徹した鷹羽狩行ではないかと思う。その師の山口誓子も知性的であったが、『星恋』という星の句集を持っており、どこか神秘主義的な色彩もなくはない。鷹羽狩行こそアニミズムから最も遠いところにいる現代作家だと思う。そしてまた、数いる俳人の中でも最も幸福そうな作家(幸福そうな俳句を詠む作家)に見えるのである。


          ※詳しくは「俳句四季」4月号を

          tanshijihyo 38/758/yagimotomotomoto

            


          五七や七五を日本人の生理的リズムだとする幻想はみんなで嵌る落とし穴としてあります。歌人たちも、高校での教育の現場も、短歌を考えたりおしえたりするうえで、五音や七音が日本語の詩にとって自然だ、生理的リズムだという考えを出発点とします。けれども、……ほんとうにそう断定してことを進めてよいか、五音や七音が日本語の詩によって生理的だという「リズム」論には、決定的な証拠が何もありません。この思い込みをうたがうことから開始しなければ、さきは望めない、と思います。七と言い、五と言い、すべては文化的、歴史的所産ではありませんか。詩的な携帯のために内在的に選びとられる文化的成立なのだというに尽きます。  (藤井貞和『構造主義のかなたへ-『源氏物語』追跡』笠間書院、2016年)

          ちょっと今日は定型と指を折ること(数字)に関して考えてみたいと思うんです。

          『川柳杜人』(253号、2017年3月)に飯島章友さんが「川柳と遵法」という定型とルールをめぐる論考を書かれていました。

          飯島さんは任意で柳誌一冊を分析・集計し、その柳誌の句のなんと4割が「おおよそ五・七・五でないフォルム」ということを導きだしました。ただそれは飯島さんの「体感」としては「ごくごく一般的な割合」だとも述べています。

          それには飯島さんなりの理由があって、たとえば五八五という中八になったとしても、たとえ2音の音であっても1音として素早く読んでしまう場合も多々あるからだと言います。たとえばわたしたちは「しんかんせん」の「せん」をわざわざ「せ・ん」とはっきり発音はしません。「しんかんせ(ん)」と読む場合もあるからです。

          そして飯島さんは小池光さんの「短歌にあっては、4+3≠3+4なのである。数学でいう共約役関係は成り立たない」という言葉を引いて、「マツモト/キヨシ」と「キヨシ/マツモト」の音のリズムは同じではないということを紹介しています。たしかに口に出せばわかりますが、数字はおなじでもリズム感は違いますよね。となると、定型って指を折っていてはだめかもしれないわけです。

            ここで分かったことは、変格や準格は定型のバリエーションとして見なされる、ということ。たとえ正格でなくても定型なのです。もはや、最近五・七・五定型が乱れている、などとはいえなくなりました。
             
          (飯島章友「川柳と遵法」『川柳杜人』253号、2017年3月)

          昔、ある鼎談で、わたしの記憶がたしかならば、斉藤斎藤さんが、短歌は指を折ってつくるものではないんじゃないか、と言われていたことがあって、それがずっと忘れられないんですね。どういうことなんだろう、とずっと考えていて。ふつうは短歌をつくりはじめるとき、指を折って、57577をちゃんと数えてつくりはじめますよね。でも、そうでもないらしい。その答えが飯島さんと小池さんの上の説明にあるような気がするんですね。数はおなじでも音律は違う場合がある。

          片山由美子さんが「字余り」いついてこんなふうに書かれています。

            字余りはどこまで許されるのでしょうか。ひとつの目安になるのが、四分の四拍子三小節ということです。一拍に二音を当てはめると一小節は八音、全体では二十四音になります。
            (片山由美子『俳句のルール』笠間書院、2017年)

          これはおもしろいですよね。俳句って575の17音に見えるんだけど、実は、口に出して唱えているときは、888の24音になっているということなんです。なんでかというと、定型のリズムは休止がつくるものであり、俳句を口にだして読むときに休みの音もそこにちゃんと入れて読んでいるからです。

          だから、もし字余りの場合でも、24音以内であれば、

            字余りは、文字通り余ってはみ出すという印象を与えますが、実際には圧縮されるのです。長いフレーズは速く言う、そのことに尽きます。
           (片山由美子、同上)

          となると、指を折ってつくるというよりは、どういう速度やリズムをつくりたいかが定型詩をつくるときに必要なんじゃないかということがだんだんわかってきます。

          たとえば定型内部の独特なゆれのリズムを言わば不安な生命感覚のようにうみだしている歌人に岡野大嗣さんがいます。

            ひやごはんをおちゃわんにぼそっとよそうようにわたしをふとんによそう  岡野大嗣
             (「わたしだけのうるう」『大阪短歌チョップ2 メモリアルブック』2017年2月)

            ひやごはんを/おちゃわんにぼそ/っとよそう/ようにわたしを/ふとんによそう

          わたしなりに区切ってみたんですが、一見定型にあてはまらなそうにみえて、67577とほぼ定型どおりになっています。だから実は定型からそんなにぶれていないんですが、6音の不安な出だしから「ぼそ/っと」で定型がまたがっていくあたりで不安なリズムが増幅される仕掛けになっています。定型のゆれていく使用=仕様によって、「ひやごはん」的生の不安でしかし凝り固まったありかたが醸成されています。これは定型の内部のゆれのリズムとして考えることができるんじゃないかと思うんですね。

          また飯田有子さんのこんな短歌があります。

            たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子

            たすけてえだげね/えさんたすけてに/しかわもうふのた/ぐたすけてよなか/になでまわすかお

          と88888になっています。88888なので、さきほど片山さんが書かれていたように非常に早口で息せき切って読まなければなりません。しかしそのせいで、性急なヘルプな感じがとても強くでてきます。一首をすべて読むころには酸素も薄くなり、ほんとうにじぶんが助けてというかんじになる。ひっぱくします。

          もしかしたら飯田さんのこの歌は、意味内容で解釈する歌ではなく、純形式的な歌ではないかとおもったんです。意味ではなくて、形式の歌だと。形式が「たすけて」と言っている歌なんだと。リズムが「たすけて」といっている。

          こんなふうに定型というのは実は指を折っていてもアクセスすることのできない〈なにか〉の場合もあります。そしてそうした定型自身が〈なにか〉としてつねにうごめいているからこそ、その奥にふおんな〈なにか〉が生まれるのかもしれません。

          たとえばそれは、青木亮人さんが描いたような、到達できないなまなましい〈なにか〉です。ゆびの、もっと、おくの。おく、の。

            作者が考えた唯一の正解はどちらかでなく、どちらも混じりあいながら生々しく読者に迫るのが「俳句」といえます。単に五七五や季語のある句でなく、何か奇妙なものの発見や一種の驚き、違和感やずれのような実感がやけに漂う作品であり、それまで当然と信じ、疑問に感じなかったことが何かの体験を契機に「…?」と感じ、常識や先入観が不安定に陥った瞬間の生々しさが読者に伝わってくる、その《何か》が宿っていれば「俳句」であり、自由律や無季句でもそういう手触りがあれば「俳句」である、とひとまずいえるでしょう。
            (青木亮人『俳句のルール』同上)





          2017年3月18日土曜日

          第62号 

          ●更新スケジュール(2017年3月17日・31日

          二十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞‼
          恩田侑布子句集『夢洗ひ』

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          第六(3/24) 小沢麻結・池田澄子・陽美保子・内村恭子・小野裕三
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            【抜粋】
          <抜粋「俳句四季」2月号> 最近の名句集を探る
          恩田侑布子『夢洗ひ』より 
          …筑紫磐井、大井恒行、小林貴子、齋藤慎爾 》読む

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              • 3月の執筆者 (柳本々々 ) 

                俳句空間」を読む  》読む   
                ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子・
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                俳句年鑑2017年度版・年代別2016年の収穫に筑紫磐井執筆‼
                「二つの力学」筑紫磐井
                【紹介作家】池田瑠那・高瀬祥子・阪西敦子・西山ゆりこ・大高翔・日下野由季・津久井健之・前北かおる・北大路翼・藤本夕衣・鎌田俊・冨田拓也・杉原祐之・村上鞆彦・椿屋実梛・大谷弘至・藤井あかり・杉田菜穂・高柳克弘・涼野海音・中本真人・松本てふこ・抜井諒一・音羽紅子・伊東裕起・小川楓子・神野紗希・西村麒麟・佐藤文香・山口優夢・野口る理・中山奈々小林鮎美
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                特集:「金子兜太という表現者」
                執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                  


                特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

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                【短詩時評37戒】なかはられいこの覚悟、小池正博の十戒、表現者の決意/柳本々々

                あれこれ本を読んでいると、たまたま違うひとが・同じ時期に・同じことを言っていた、というシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に出会うことってありますよね。

                このシンクロニシティは心理学者のカール・ユングが言っていた概念なんですが、ユングが人類の共通の基盤としての〈集合的無意識〉に眼を向けたように、偶然の一致というのは実はなんらかの背景や基盤が生成されているしゅんかんに起こるんじゃないかとも思うんです。なにかの背景が生まれているときに起こるものだと。

                今回わたしが川柳においてみたのは、なかはられいこさんと小池正博さんの発言におけるシンクロニシティでした。

                名古屋市のねじまき句会による『川柳ねじまき』3号が2017年1月に発刊されました。

                  完璧な春になるまであとひとり  なかはられいこ

                  つつつつつ、つっつっつっつあと少し  中川喜代子

                  この町を毎日去っていく電車  瀧村小奈生

                  幸福の王子の足もとに眠る  妹尾凛

                  クリストファーと名付けたくなる朝がある  魚澄秋来

                  ゴミ入れるゴミ箱もゴミ年の暮れ  安藤なみ

                  湯気の中鎌倉大仏座り込む  犬山高木

                  完成までカーブが続く枯野原  青砥和子

                  おたがいの白の深さをたしかめる  米山明日歌

                  向き合ってきれいに鳥を食べる夜  八上桐子

                  もう少しで中途半端にたどり着く  三好光明

                  絶望が袋の中で動いてる  丸山進

                  飛行機雲すっきり伸ばす股関節  猫田千恵子

                  まずは資料請求たんぽぽ咲く国へ  二村鉄子

                『ねじまき』のみなさん各人がみずからのワールドを展開されているので『ねじまき』の特徴を一言で言い表すのは難しいんですが、あえて言ってみるならば、〈悪意〉だと思うんですね。

                これは私も今言ってみて意想外だったんですが、ただ今各人の連作を読みながら自分の気になる句を一句ずつ抜き出していくそのなかで、〈悪意〉を感じたんですね。これは誤解されないように急いでいうといい意味での悪意です。世界をずらす力としての悪意(ちなみに私は現代川柳と悪意の問題はとても重要なのではないかと考えています。悪意は表現の源かもしれない)。

                たとえば上のなかでは、安藤さんや八上さん、丸山さん、三好さんの句がわかりやすいかもしれません。ただ例えばなかはらさんの春の句にしても、春に対する悪意とみることもできると思います。春に「完璧」を求めるなんてそれはひとつの悪意なんですから。悪意とは、世界を〈斜めから見る〉まなざしです。

                ところで、今回の『ねじまき』は今までと違い、句会の実況中継をやめて代わりに「ねじまき句会を実況しない」というなかはられいこさん、二村鉄子さん、瀧村小奈生さんの三人が川柳を具体的に「読むこと」について話し合う記事が載っています(ちなみにこの「実況しない」というタイトルも特徴的ですよね)。この記事でわかるのは「ねじまき句会」が非常に「読むこと」を意識/重視している句会であることです。作る、だけでなく、読む、ということについてもあわせて考える。それもねじまきの特徴だと思います。

                「ねじまき紀行」という記事のなかでなかはらさんのこんな発言が紹介されています。

                  「かく」の平仮名表記が議論の対象になった。「書」という題でも「描」という題でも出せる句である点で、どちらかに決める「作者としての覚悟が足りない」というなかはら発言が飛び出す。

                短歌や川柳では表現としてあえてひらがな表記にすることがありますが、それは文脈によっては「覚悟が足りない」と思われることがある。ひらがなが多様性として効果を発揮することもあれば、表現者の決意の有無の問題として問われることもある。

                ここでは、表現者としての〈覚悟〉が問われています。わたしたちはなにかをつくる際にそれそのものだけでなく、それをめぐる〈覚悟〉をかたちづくる必要がある。

                この〈覚悟〉について偶然まったくおなじ時期におなじような発言をしていた川柳作家がいます。小池正博さんです。『川柳木馬』(150・151号合併号、2017年1月)に「川柳の言葉をめぐる十五章」という表現者のための十戒のような記事を書いています。小池さんの言葉から箇条書きにして私がまとめてみたいと思います。

                  1、俳句と川柳との混淆をどう考えるか。俳句と川柳の混淆については歴史的な経緯があり、それを踏まえることなく作句するのはいかがなものか。

                  2、口語と文語をどう使い分けるか。口語文体とはいま使われている話し言葉そのものではなく、どのような口語を使うかについては意識的でなくてはならない。

                  3、どの言葉によって一句は川柳になるのか。どの選択によって類想を打ち破るのか。

                  4、連作と単独作をどのように使い分けるか。どのように連作としての時間意識をつくっていくのか。

                  5、意味か、イメージか。理屈だけでなく、イメージで想像すること。大胆な飛躍もふくめて。そこに読みの可能性もある。

                  6、川柳で一人称をどう使うか。一人称を安易に使用すると効果がなくなってしまうことがある。「俺」も「僕」もどっちも使いたい、でいいのか。

                  7、その言葉は本当に自分の言葉なのか。これまでの先行く表現者たちががもうそれは言葉にしていたのではなかったか。

                  8、下五で答えを出してもいいのか。答えは完結になりそこで閉じてしまうこともある。いいのか。

                  9、メタファーの句はもう古くないか。メタファーの書き方は便利だが、もう古いと思う。

                 10、家族詠をどのように詠むか。誰でも詠む題材にもかかわらずどう新鮮さを出すか。

                 11、どのように同じ単語を二度使うか。反復の問題。

                 12、川柳で二人称をどう使うか。「君」や「あなた」をどう意識して取り入れる/取り入れないか。

                これらはあくまで小池さんの言葉から私がまとめたものなんですが、小池さんはこの記事の最後にこんなふうに書かれています。

                  さまざまな川柳があり、さまざまな書き方がある。借り物ではない「私の言葉」を発見することは表現の出発点である。既にこういうものだと知っている「私」ではなく、言葉に現れてくる未知の「私」である。

                ここにも私は表現者の〈覚悟〉への問いかけがあらわれていると思います。

                なかはらさんと小池さんの二人の覚悟をめぐる発言からわかるのは、なにか。それは覚悟というのは大上段からふりかざすものではなく、言葉の細かさに宿るものだということです。

                なかはらさんはひらがな表記の話を、小池さんは句作の上での語彙の選択や組み立ての話をしていました。

                覚悟というのは決して表現者の内面や心情の問題ではない。そこに近いんだけれども、でもそうでもない。言葉を配列し、組み立て、構成していく際の細かな部分にあらわれてくるものだ。そうお二人が言っているように思ったんです。そしてその細かさがだんだんに重ねられ、体系化されていくことで、その世界観ができあがってくるのだと。それを決意と呼んでもいいかもしれない。

                現代川柳が他ジャンルを意識しながら多様化していく過渡期に、あらためて表現者の覚悟をめぐる発言がなかはらさんと小池さんから時期をおなじくして出たことはとても興味深いことだと思ったんです。

                だから、おもったんです。本を閉じたときに。家をでるまえに。書いておかなければ、と。

                  魅力的な作品に出会うたび、その一句がどのような経緯で生まれたのかを知りたいと思う。どのように言葉が選ばれ、どのように言葉と言葉が繋がれ、どのように一句として立ち上がったのか。知りたくてうずうずする。
                  読むことは愛なのだ。
                   (なかはられいこ「秋の真昼の品定め」『ねじまき』3、2017年1月)







                【抜粋】<「俳句四季」2月号>最近の名句集を探る 恩田侑布子『夢洗ひ』より / 筑紫磐井、大井恒行、小林貴子、齋藤慎爾


                恩田侑布子句集『夢洗ひ』が、平成28年度(第67回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。お祝い申し上げたい。恩田の『夢洗ひ』については、少し前であるが「俳句四季」2月号で齋藤慎爾・大井恒行・小林貴子と座談会を行っているので、例のようにその抜粋を紹介する。
                筑紫磐井


                筑紫 ・・・恩田さんは昭和三十一年生まれの六十歳。キャリアの長い方で、「酔眼朦朧湯煙句会」、連句の会「木の会」に終会まで所属、と略歴にありますね。現在は「豈」同人で「樸」を創刊、代表となっています。評論集『余白の祭』で第二十三回Bunkamuraドウマゴ文学賞を受賞されました。受賞の一環としてフランスへ行って日本文化についての講演もされたそうです。

                個性的な俳人であることは間違いなく、句集にもそれが表れていると思います。

                今までの句集はぎらぎらした華やかな句が多い印象でしたが、今回の句集は比較的地味な句も混じっていて、光をあまり出さないような雰囲気がとてもいいなと思いました。日常の心象を詠んだ句も多くありました。

                恩田さんも六十歳、そろそろ加齢の年を迎えて、軟着陸する先を色々考えているんじやないかなと思いました。

                そういうちょっとバイアスのかかった目で見たせいもありますが、「百態の闇をまとひて踊るなり」は上手いなと思いました。「葛湯吹くいづこ向きても神のをり」「隣合ふとは薫風の中のこと」。伝統俳句ですね。

                もう見分けつかぬや他人の流燈と」。時代劇の一場面のような。くだけた言い方の句で「吊し柿こんな終りもあるかしら」。池田澄子調ですね。

                さばけた感じの句で「ずんぐりもむつくりも佳し福寿草」「近寄つて人ちがひなり花の雨」「瞑りても渦なすものを薔薇とよぶ」。
                この辺りは伝統と前衛の中間を行っているような感じがしました。」
                      
                      *      *

                しかし私の発言には、参加者から大分異論があったようである。恩田句集に見つけた伝統俳句っぽい句は否定的意見が多かった。

                小林もこの句集は好きだが、第2句集『振り返る馬』が好きでとんがった感じでいつまでもいてほしい、有季定型に軟着陸して年相応の俳句をというのではなくて、以前のままの俳句を貫き通してほしい、と述べている。

                 また大井と私もかなり対立した。

                大井 僕とは大分選句が違いますね。僕は伝統俳句っぽい句は採れなかった。

                筑紫 結局私は、前衛俳句は最後に伝統俳句になだれ込んでもいいのではないかなと思っているんですよね。究極の伝統俳句を得るためには前衛俳句の道筋を辿っていくのではないかと。結構そういう人は多いですよね。赤尾兜子とか。

                大井 多いと言うか究極の目標はそこですから。見事なる有季定型の句をつくるというのが全ての俳人の目標(笑)。前衛俳人だって目指すのはそこですよ。

                筑紫 その意味で言えば、それが段々射程に入ってきている句集なのではないかと思います。だから前の句集が良かったと評価する人もいますけれども、私はむしろこれが恩田さんの本来の俳句ではないかという気がするんです。あえてやっているのではなくて、にじみ出てきた俳句ではないかと思います。

                年を取ったら年相応の句を詠みたいという気持は我々にもありますよね。その意味では自分自身も変わってきているのは分かるし、恩田さんが変わる必然性もわかる気がします。

                従って、私の取り上げた「近寄つて人ちがひなり花の雨」は、あまり面白くない(小林)俳人協会系の人たちってそういう句を作り過ぎじゃないですか、彼女じゃなくても他の誰かが作れる句かもしれない(大井)と述べている。

                百態の闇をまとひて踊るなり」も、類想感があるような気がする。「闇」と「踊り」の取り合わせは多くの人が作っているし、あえて作る必要はない(大井)と厳しい。
                齋藤慎爾も「核の傘いくつひろげて天の川」の句は一片のスローガンにも劣る、と厳しい。
                これに代えて、参加者の取り上げた句を眺めてみる。

                【小林貴子】
                片かげを滅紫(けしむらさき)に吉野川
                あはゆきや塔の基壇の彩漆(たみうるし)
                天網は鵲(かささぎ)の巣に丸めあり
                落石のみな途中なり秋の富士

                【大井恒行】
                くろかみのうねりをひろふかるたかな
                片かげを滅紫に吉野川
                心臓を一箇持ちより夏の山
                この亀裂白息をもて飛べと云ふ
                柱なき原子炉建国記念の日
                三つ編みの髪の根つよし原爆忌
                核の傘いくつひろげて天の川
                落石のみな途中なり秋の富士

                一方、推薦者の齋藤は「ドウマゴ文学賞を俳人が受賞する事は今後もないと思うので、恩田さんには頑張って欲しい」と結んでいる。

                私自身の結論は、座談会の中で述べたように「期待されすぎて、あまり高いところに上がっちゃっていると辛いかなという気もしなくはない」という感じなのだが、恩田が、齋藤慎爾の感想通り、頑張って芸術選奨を受賞したのは慶賀に耐えない。

                 たぶん、俳壇で恩田の受賞がいろいろ議論を呼ぶことは間違いないと思う

                できれば前衛と伝統の対立などより深まった議論の行われることが期待される。例えば、「百態の闇をまとひて踊るなり」は、あまり言及されなかったが、闇に百態を見るところに興味を感じたのだが、こうした全体と部分の関係は、伝統と前衛という立場の差より、読者の個別の視点の差であるはずだ。もとより、俳句は類想を免れない、類想の上に名作が出来上がるとすればその差をどこまで許容するのか、従来そうした方向からはあまり議論されてこなかった問題であるように思う。




                ※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。