慰めに
「勉強など」と人は言う
その勉強がしたかったのです 鳥居
2017年2月7日、NHKで「NEXT 未来のために「響き合う歌~歌人・鳥居と若者たち」」という番組が放送されました(再放送です)。
で、私が以前から鳥居さんの歌でとても気になっている歌があって、
けいさつをたたいてたいほしてもらいろうやの中で生活をする 鳥居
(岩岡千景『セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語』KADOKAWA、2016年)
という歌なんですが、この歌のやっぱりいちばん気になる点というのは〈ひらがな〉が採用されている点だと思うんです。このなかで漢字なのは「中」と「生活」だけで、あとはぜんぶ〈ひらがな〉で綴られることによって〈現実感覚〉がない。「けいさつ」も「たたく」も「たいほ」も「ろうや」も〈むこう〉にあるできごとのように思います。
でも、「生活」という漢字が最終的にくることによって、この歌は「生活」が始まります。そしてその「生活」から遡行するかたちで「けいさつ」や「たたく」や「たいほ」や「ろうや」のリアルが出てくる。つまり、この語り手にはそれまで「生活」というものがなかった。もっと言えば、「中」といえるような〈シェルター〉がなかった。「中」も「外」もない場所で暮らしていた。
だから、ひらがなと漢字の差異もどうでもよかった。生活がない、というのはそういうことだから。ところが「けいさつをたたいてたいほしてもらいろうやの中」というシェルターに入れてもらったしゅんかん、「生活」が生まれ、ひらがなと漢字の差異をやっと〈気にかけることのできる〉安全圏に入った。だから、漢字変換することができた。
鳥居さんにとって〈生活〉とはなによりも〈文字〉であり〈書く行為〉なんじゃないかと思ったんです。
それでこのひらがななんですが、ドキュメンタリーの最初に鳥居さんの自己紹介文が出てくるんですね。ちょっと引用します。
はじめまして。
私の名前は 鳥居と 云います。
私は 小学校中退で ホームレスで 孤児。
とても とても 貧乏です。
……
おばあさん と おじいさんは
おかあさんを 虐待して
おかあさんは、
私を 虐待しました。
おかあさんは、トラウマに苦しみ
私が 小学生のときに
灰色になって
自殺してしまいました。
ここでちょっと注意してみたいのがやっぱり〈変換〉のありかたなんです。たとえば「鳥居と 云います」の「云います」は「いいます」でも「言います」でもなく、「云います」とあえて「云」という漢字が採用されています。変換が気遣われていることのあらわれです。
ところが「おばあさん」「おじいさん」「おかあさん」はひらがなであらわされ、のっぺりしています。しかも彼らが主語になってつく動詞は「虐待」という重い現実のことばです。ここには主語と動詞のあいだに奇妙なギャップがあり、読者は必然的にそこに注意を向けなければならなくなります。
ここにあらわれているのは上の短歌にもみられたような〈文字への気遣い〉からくる〈なにか〉です。その〈なにか〉はわからないけれど、しかし、文字変換のありかたの凸凹によってわたしたちは〈ここ〉でなにかを読みとらねばならないことを意識させられるように、思うんです。だとしたら、それは、なんなのか。
ドキュメンタリーのなかで鳥居さんが学生たちに述べられた言葉があります。
この教室のみなさんでホームレスの人を見かけたことがないっていう人、手をあげてください。すぐそばにいるのに、私たちは、その人の世界を知らないですよね。自分が仲介者というか媒介者というか、役目が、使命があるんじゃないかなと思って。
鳥居さんはわたしたちがふだんきづいていながら・きづかないようにしていることに・きづかせようとしています。なにかの〈圧〉で。
〈仲介者〉になるとは、言葉の変圧器にみずからの言葉そのものを変えることもかもしれません。その意味で、〈ひらがな〉はわたしたちに〈圧〉のなにかを考えさせます。
ひらがな、ってなんだろうと、おもうんです。わたしたちは幼い頃、それしか知らなかったはずなのに、つかいなれていたはずなのに。そして、いまでも、つかえるはずなのに。
目をふせて
空へのびゆくキリンの子
月の光はかあさんのいろ 鳥居
ふむ…では柳本さんは鳥居さんの歌からなにに気づいたのですか?
返信削除そこが一番肝心では?
>鳥居さんはわたしたちがふだんきづいていながら・きづかないようにしていることに・きづかせようとしています。