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2016年10月14日金曜日

【短詩時評 name28.0】名前の練習~蛇、ながすぎる~/柳本々々




  タイトルとは、作品「について」の観念である。
   (佐々木健一『タイトルの魔力』中央公論新社、二〇〇一年)

  ゲゲゲが「げげっと驚く」のゲゲだとしたら、より自然なのは「ゲゲゲな鬼太郎」ではないか。そこをゲゲゲ「の」といわれると、ゲゲゲの意味なんてものは知っていて当たり前というか、ああ、ゲゲゲね。分かります分かります、といわなければならない感じがする。
   (ブルボン小林『ぐっとくる題名』中公新書ラクレ、2006年)

  私たちは誰もが、小さな〈父〉である。そして誰もが歴史という物語の保証を与えられないにもかかわらず不可避に決定者として機能してしまう存在だ。しかし、私はそのことを不幸だとは思わない。これからも引き受けていこうと思う。

   (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬社、二〇一一年)

【長すぎる前書き】

作家のルナールというひとが、蛇をみたときに蛇の感想として、「蛇、長すぎる」と言ったそうなんですが、今年放送されたフジテレビのドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(二〇一六年)をはじめて観たときに、これはながすぎるだろ、と思ったんです。タイトルながすぎる、と。

でも、あれっと思ったのは、さいきん、木下龍也さんの歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』や瀬戸夏子さんの歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』のようなインパクトのあるタイトルの歌集が発刊されていますよね。それってこれまでの近代歌集にはみられることのなかった〈少し長い〉歌集タイトルじゃないかとちょっと思ったんです。

それってどういうことなんだろう。いや、そもそも、タイトルを考えようとするときにどこまで・どうやって考えられるのか。それを今回、二回にわたってすこしやってみようと思うんですね。秋なので。なんだかいい時期なので。

で、ですね。タイトルを考えようとするときどんなふうに〈とっかかり〉を見いだしたらいいのか。たとえばブルボン小林さんの『ぐっとくる題名』がジャンル横断しながら作品のタイトルを解釈していくおすすめの本なんですが、もう少し学術的につっこんだ本としてはたとえば〈タイトル〉を美学的に論じた美学者・佐々木健一さんの『タイトルの魔力』があります。

以下の佐々木さんのタイトルをめぐる概説は〈タイトル〉を学問的に考えようとするにあたってまず最適な出発になるんじゃないかと思うので〈長くなります〉が引用してみましょう。

  タイトルの概念の歴史は非常に重要である。藝術家がタイトルというものを自覚しているかどうかは、その作品の性質を大きく変える要因と思われるし、更にまた、そのタイトルを単なる便宜的な呼称と見るか、それともそれ以上の積極的な意味を込めるかの違いが、かれの藝術観を大きく左右する。ここでの問題は既に、なまえの魔力の領域ではなく、はっきりとその記号論的な領域に属している。なぜなら、問題はタイトルを介してどのように作品に対するかという関係に関わっているからである。そこで、タイトルの性格は作者の作品に対する態度を反映したものと見られるわけである。今日われわれは、古今東西のありとあらゆる藝術作品に呼称を与えている。そのために、すべての藝術作品がはじめからタイトルをもっているものと思っている。しかし、これは錯覚である。慣習的に与えられているにすぎないタイトルを、作者の命名による近代的な、真のタイトルと同じものと見ることは、大きな誤解につながりかねない。
 
(佐々木健一『タイトルの魔力』前掲)

ここで佐々木さんが指摘していることで大事だと思うのは、ひとつは〈タイトル〉というのは作者の「態度」があらわれる〈場〉であるということです。そしてもうひとつは、その作者と作品が一体化していくような「態度」は作品を作者の〈内面〉として読むようになった近代以後であるという〈タイトル〉への時代的・制度的な視点です。つまり、タイトルも歴史的にそのありようが変化していっている。

この視点から出発してみれば、〈歌集のタイトルを読む〉というテーマも実は短歌/歌集を読むということと歴史的にも、同時代的にも非常に深い関わりがあるんじゃないかと思うんですね。歌集のタイトルを読むという視点はこれまでとは違った短歌の一角に光をあてることになるんじゃないかと(もちろん、失敗に終わるかもしれないけれど)。

もちろん〈歌集タイトルを読む〉というテーマの場合は、資料は膨大です。だから2010年代の現在にとりあえずしぼって、今という地点から少し考えてみることにしたいと思います。

【長すぎなかったタイトル】

で、ですね。さきほど木下さんや瀬戸さんの少し長い歌集タイトルをあげてみたんですが、たとえば近代歌集のタイトルってどんな感じだったんでしょう。ちょっとあげてみます。石川啄木『一握の砂』(明治43年)『悲しき玩具』(明治45年)、島木赤彦『馬鈴薯の花』(大正2年)、斎藤茂吉『赤光』(大正2年)。
近代短歌の歌集のタイトルは、〈短い〉ですよね。しかも、木下さんや瀬戸さんの文=センテンスのタイトルとは違って、名詞=体言のタイトルばかりです。
ちょっと思い起こしてみたいのは近代短歌のタイトルばかりが特別だったわけではないということです。たとえば二葉亭四迷『浮雲』(明治20年~22年)、森鴎外『舞姫』(明治23年)、夏目漱石『こころ』(大正3年)など日本近代文学のタイトルも名詞=体言でした。

文芸評論家の斎藤美奈子さんが、日本の近現代文学のタイトルをめぐって次のようなとても興味深いことを述べられているんです。

  よく「近代文学と現代文学は違うんですか?」と質問されることがあります。私は二つの違いはあると思っています。まず、タイトルが違う。いわゆる「ザ・近代文学」のタイトルは堂々としています。舞姫』『坊っちゃん』『暗夜行路……。それが1960年代、70年代以降になるとタイトルが言い訳くさいんですね。されど われらが日々-とか(笑)。赤頭巾ちゃん気をつけて限りなく透明に近いブルーなんとなく、クリスタルもそうですが、エクスキューズが混じるというか、タイトルが長いし、カタカナが交じる。
  (斎藤美奈子『岩波講座現代 第1巻 現代の現代性』二〇一五年、岩波書店)


斎藤美奈子さんは「近代文学」のタイトルは「堂々としてい」ると語っていますがそれは近代文学のタイトルが名詞=体言で終わるからだと思うんですよ。名詞だけでバーンとやられるとなんだか偉そうにみえるではないですか。国際卓球審判、とか。

どうして偉そうに、盤石にみえるのかというと、名詞=体言っていうのは変化というか活用ができないからだと思うんですよね。「走る」→「走れ」みたいに活用できない。「こころ」は「ここれ」にはならない。

だから名詞=体言のタイトルは、私たち読者がその単語を開封して、その本を読む過程で、文の単位に置換していかなければならないんだろうとも思うんです。私たちが〈活用〉し、その体言に〈述語〉を与えなければならない。すなわち、〈内面〉であり、〈解釈〉を。それが近代文学を読む行為だったんじゃないかと思うんです。

たとえば近代文学として夏目漱石の『こころ』を読むということは「こころ」という名詞=体言を、こころの叙述として文=文章の単位に置き換えるということだったのではないかと。「先生のこころがXだったのだ」と。

一方で斎藤さんは現代文学のタイトルは「言い訳くさい」と語ってましたよね。それは現代文学のタイトルが長く、それ自体がすでに〈メッセージ性〉をもってしまっているからじゃないかと思うんです。そこには〈解釈〉うんぬんの問題があるというよりは、タイトルによって読者を選別し、合うか合わないかをタイトルが《すでに》選別しているんじゃないかと。

だからこそ、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1981年)は〈読む〉というよりは、その記号的小説のなかで〈遊べる〉読者が選ばれるのではないかと思うんです。〈戯れ〉として。

斎藤さんの指摘しているタイトルの〈現代文学〉は1960~80年代の話でしたが、2010年代のタイトルは私的には〈さらに〉長くなっていく状況に突入しているように思います。ドラマやアニメ、ライトノベルの領域にそれらは〈ジャンルを越えて〉散見されるようになったんじゃないかと思うんです。
たとえば冒頭で述べたフジテレビのドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016年)やフジテレビで放映されたアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(2011年)などです。

よく言われることでもあるけれど長いタイトルは十代を主な対象とするライトノベルにはとても多いですよね。たとえば伏見つかささんの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008年)や大森藤ノさんの『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(2013年)など。

長いタイトルの特徴を考えてみるならば、それはすでに《コンセプトがはっきりしている》ということです。たとえばドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の内容は、たぶん「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」なわけです。だから、いつかこの恋を思い出さないし、きっと泣かないひとはこのドラマを〈タイトル〉から遠ざけられて見ない(場合がある)でしょう。

また同時に、これらの長いタイトルを見ていると〈口語体〉であるのも特徴です。それらは誰かが・誰かに向けて語りかけている〈話し言葉=メッセージ〉であり、それによってわかるのは語りかけている特定の「きみ」と語りかけられなかった不特定の「きみ」に読み手が差異化されていくことです。タイトルは誰かに話しかけている、ということは、誰かには話しかけていないということでもあるのです。
名詞のタイトルではこの語りかけができません。名詞のタイトルとはいわば箱のようなものであり、それは小説なり歌集なりアニメなりドラマなりひらいてみるまではその名詞の質感をつかみとることはできません。

しかし〈長いタイトル〉は違います。まずそれは作者への想像力というよりは、作者からの語りかけ、作者からの受信の仕方の伝達の問題なのだと思うのです。だからこの受信ができなかったら、それはあなたは〈正しい・理想的な読者〉ではないということかもしれません。もしかしたらライトノベルから拒絶されたように感じられたひとがいるとしたら、内容というよりはタイトルによってなのかもしれません。

ここらへんで少し〈長くなってきた〉ように感じてきたので、次回の後編でまたお会いしたいと思います。少しどんなことをお話するのかをここで話すと、ふたたび歌集のタイトルに話を移しながら、具体的に木下さんや瀬戸さんの歌集内の名前の歌にも注目してみたいと思います。またさいきん斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』が新装版で出版されましたが、斉藤さんの歌集内において〈名前〉と〈わたし〉が絶対的同一性を持ち得ないように、名前の耐用期限がもしかしたら現在においては切れてしまっているのではないかということも考えてみたいと思っています。

うまくゆくかどうかはわかりませんが、やってみようと思います。

それでは、長いのか長くないのかよくわからない二週間後にまたお会いしましょう。

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