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2016年9月30日金曜日

【短詩時評 note27】死ぬ前に書いておきたい現代川柳ノート:わたしが川柳を好きな五つの理由―ヴァルター・ベンヤミンと竹井紫乙から― / 柳本々々


  君が好き青や緑も好きになる  竹井紫乙
    
(『句集 ひよこ』編集工房円、2005年)
   
このときのような街路を、ぼくは二度と見たことがない。
  家という家の戸口は炎を噴き、街角の石という石は火花を発し、路面電車はどれも消防車のように走ってきた。
  だってかの女は、どの戸口から、どの街角から現れるか知れなかったし、どの電車に乗っているか知れなかったのだから。
 

(ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇 ベンヤミンの仕事1』岩波文庫、1994年)

  ベンヤミンの著作は、何度も振り出しに戻りながら、遠大な目的にまだ枠づけられていないものを哲学的に稔り豊かにする試みである。彼の遺産を継承する者は、この試みを意外性に富んだ思想の判じ絵の段階にとどめずに、さらに一歩進めて目的や意図に枠づけられていないものを概念化する課題に取り組まなければならない。一言で言えば、弁証法的でもあれば非弁証法的でもあるような思考法を自らに課さなければならない。
(アドルノ、三光長治訳『ミニマ・モラリアーー傷ついた生活裡の省察』法政大学出版局、2009年)

前回、小坂井大輔さんと〈死〉をめぐった時評を書きながら、死んじゃったら書けないことが出てくるなと少し考えた。わたしがどうして川柳を好きなのかも書けなくなっちゃうかもしれないなと(霊的交信で代筆してもらうこともできるかもしれないが、それはおいておいて)。

だから、わたしが現代川柳を好きになった理由を書いておくことにした。

ただ好きといっても漠然と好きといっていても仕方ないので、テキストとガイドをつけたいと思う。わたしが川柳を好きな理由は、竹井紫乙の句集『ひよこ』にあるような気がするので、それをテキストにし、そしてその気を〈かたち〉にするために、文化のさまざまな隙間を〈かたち〉化していった思想家のベンヤミンと手をつなぎながら、つまりガイドになってもらいながら、現代川柳のノートを書いてみようとおもう。

たぶん、そんなふうに〈死ぬ前の〉じぶんを仮定し、書き・考えていく過程をそのまま描くことが、わたしが川柳にもとづいていろいろ考えることの、川柳を好きな理由につながっていくとおもうのだ。まだ死なないけれど。


【1、あなたはわたしに世界の名前を教えてくれる】

  表現というものは、そのいちばん奥深い本質全体からいって、《言語》としてのみ理解されねばならない。
 
(ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』ちくま学芸文庫、1995年)
  
化け物に名前をつけて可愛がる  竹井紫乙

まずなによりも大事なのは、川柳は〈ことば〉だということだ。この意味において、川柳は言語メディアだということを忘れてはいけない。まずことばありき、なのだ。

だから、川柳はイメージではない。ことばが定型にそって構築され、構造的な連なりとして表出されたのが、〈川柳〉なのだ。だから、川柳を読むときには、まずなによりもこの川柳が〈ことば〉であるという事態について注意しなければならない。ベンヤミンが「人間の精神生活のどのような表出も、一首の言語として捉えることができる」と述べたように、川柳もまた「どのような表出」であれ、「言語」なのだ。

「言語」とは、なにか。

それはカタチに名前を与えることだ。「化け物」のような不定形な曖昧さに「名前をつけて可愛がる」ことのできるレベルまでひっぱりあげること。それがことばの役割でもある。わたしたちは曖昧さをつねにラベリングし、それを手紙に書いたり、落書きにしたり、公式な書類にしたり、一回かぎりの愛のことばにしたりする。

だから、ことば=川柳は、ある意味において、不安定な世界をひとつひとつていねいにラベリングしていく機能をもっている。だれもが見過ごしてしまうような、それでもだれもが漠然と意識していたような「化け物」に名前を与えること。それが川柳なのだし、それがわたしがあなたを好きになった理由だった。


【2、あなたはわたしに希望をくれる】

  彼らが戦(いく)さのために力を蓄えることが決してなかったとしたとして、それがどうしたというのか? 希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。

   (ベンヤミン「ゲーテの『親和力』」前掲)
  干からびた君が好きだよ連れて行く  竹井紫乙

川柳はリミットを越えてなおそれでも〈希望〉があることを教えてくれる。「干からびた」わたしになったとしてもそれでも「連れて行く」くらいに「好きだよ」といってくれるひとがいること。それを川柳は教えてくれるのだ。

なぜ、川柳は希望の形態にちかいのか。

それは、定型というメディアを介して川柳が表現を提出するからである。定型は、饒舌をゆるさない。したがって語り手には背景や文脈を与える隙がない。ということは、読み手が背景や文脈を用意するのだ。

だからこそ、川柳は、どのような〈読み〉の可能性をもわきおこる。そのような読みの多様性こそが、わたしは〈希望〉だとおもう。読みのアナーキズムこそが、希望の形式なのだとわたしは思いたい。そしてその希望の形式をとったのが川柳なのだと。

ベンヤミンも書いている。「理想はもっぱら多様性のうちに現われる……それを明るみに出すことが批評の仕事なの」だと。


【3、あなたは滅びながらも生き生きしている】


  アレゴリー的相貌が実際に目の前に現れるのは、廃墟としてである。廃墟という姿をとることにより歴史は収縮変貌し、具象的なものとなって、舞台のなかに入りこんだのである。…瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。
   (ベンヤミン「アレゴリーとバロック悲劇」前掲)

  ここが好き生まれ育った地下である  竹井紫乙

川柳は時間が過ぎ、それそのものが滅びるまでの姿を描かないようにして、描く。ある意味で、川柳には時間性がないし、その時間性がないことによって、川柳は時間性を確保している。だから、川柳にあらわれる時間は、いつも〈廃墟〉である。

わたしは先ほど川柳には背景や文脈がないといったが、読み手が川柳のなかの〈時間〉をめぐる記号をつかみとり、花に水をやるように、時間をその句に与えるのである。

たとえばこの句には「生まれ育った地下」という生育としての時間の幅と、「ここ」という〈いま・ここ〉の現在の時間軸がある。この句には、時間の厚みと、しゅんかんとしての現在時が拮抗しつつ、「好き」という表出において結ばれている。その時間を「生き生き」とさせるのは、読者だ。

川柳は時間を描かない。しかし、時間を読み手に託すのだ。だから川柳は〈滅び〉のすがたをとっていられる。いつでもあなたがわたしをいきいきとさせてくれるから。

「アレゴリカーの手のなかで、事物は己れ自身ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、〔事物について語りながら〕この事物そのおのではない他のなにかについて語ることになる」といったのはやはりベンヤミン。

【4、あなたはわたしをすっぱぬいてくれる】


  娯楽産業のおかげで人間は簡単に気晴らしができるようになる。なぜなら娯楽産業は人間を商品の高さにまで引き上げるからである。人間は自らを娯楽産業の操作に委ねてしまう。自己からの、そして他人からの疎外を楽しみながら。 

 (ベンヤミン「パリ――十九世紀の首都」前掲)
  お店から盗って来た本くれる彼  竹井紫乙

川柳はひとつしかありえないと思っていたはずの世界や視点を相対化する文芸である。そしてその相対化のままで絶対化の高みまで届かせずに読者に手渡すのも、また、川柳だ。

「お店から盗」んだ本をくれる彼。この句の〈倫理〉をかんがえた場合、それはどのような基準になるのだろう。お店から本を盗んできてしまう「彼」が悪いのか。それともお店から本を盗んでくるくらいに思いを寄せられている〈わたし〉が「彼」にそうさせてしまったのが悪いのか。それともこうした事態をたんたんと定型におさめ、川柳化している語り手の〈悪〉を問うべきなのか。それともここに無理に倫理観を押しつけているわたし=柳本々々の倫理観を問うべきなのか。

わからない。わからないが、川柳が、あるひとつの視点に焦点を定めようとしたときに、即座にその視点を相対化してこようとしてくるのがわかるはずだ。わたしたちは川柳の世界では〈商品〉にはなれないし〈気晴らし〉もできないのだ。なにかになろうとしたときに、その〈なにか〉そのものを相対化し、それってどうなの、と問いかけてくるのが、川柳なのだから。

川柳とはやはりベンヤミンの言葉を借りれば「疎外された〔他郷(よそ)者になった〕人のまなざし」であり、「それは遊歩者(フラヌール)のまなざし」なのだ。


【5、あなたはわたしにいつか死ぬことを思い出させてくれる】

  今日の人間のあり方からすれば、根本的な新しさはひとつしかない。そしてそれはつねに同じ新しさである。すなわち死。
    

(ベンヤミン「セントラルパーク」前掲)
  すべり台死ぬ子生きる子登ってく  竹井紫乙
川柳は〈死〉から眼を反らさない。むしろ死の内側に入り込み、死そのものを生きようとする。たとえば石部明の川柳のように、死をカーニバルとして祝祭的に描くのも、また川柳である。わたしたちは〈死〉をかならず経験するが、しかし〈死〉を知ることはできない。だからベンヤミンがいうように、〈死〉だけはいつも新しく、〈死〉を語ることはいつも〈発明〉なのである。

だが、そうした一方で語り方がパターナリズムに陥るのもまた〈死〉である。わたしたちは日々、大量に再生産される〈死〉の表象に馴致し、あたかも〈死〉を知ってるがように〈死〉を語りはじめる。
どうすれば、いいのか。

〈死〉の表象を、これまで/これからの〈死〉の表象への〈あらがい〉とすること。《いや、そうかもしれないが、そうではない》と表象しつづけること。その《いや、そうではない》にこそ、死の表象の強度があるのではないか。

死を生の内側に置くこと。死をいきるのだ。あらがって。竹井紫乙の句のように、「すべり台」を「死ぬ子生きる子」と生死ないまぜにしつつも、「登ってく」こと。

馴致されてしまっている〈死〉の表象へのあらがいこそが、わたしがいちばん川柳を好きな理由なのではないかとおもう。川柳は、たぶん、〈死の文芸〉でもあるから。

明日死ぬかもしれない不能感のなかで、あらがうこと。「世界」はいつも「左の手」からくりだされている。

  誰であれこの日々には、自分が「できる」ものに固執してはならない。力は即興にある。決定的な打撃はすべて、左の手でなされるだろう。 

(ベンヤミン『暴力批判論 他十篇 ベンヤミンの仕事1』岩波文庫、1994年)
  もう一つ世界を増やす準備する  竹井紫乙



 (「わたしがあなたを好きな五つの理由―或いはヴァルター・ベンヤミンと竹井紫乙―(特集 川柳はお好きですか?-ジャンルを行き交う人々-)」『川柳 杜人』(248号・2015冬)に寄稿した記事を加筆訂正した上で転載)






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