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2016年8月12日金曜日

【短詩時評 24首目】瀬戸夏子に〈出会う〉こと-『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』から想を得て-  柳本々々



  しかし、〈歌の分からなさ〉は、一つの価値となっている面がある。…おそらく瀬戸(夏子)は、「分かってほしくない」ということを全力で伝えようとしている。…そうした「分からなさへの希求」が、…歌のバックボーンになっているのではないか。
 
    (吉川宏志「比較の詩型 そして比較できないもの」『ユリイカ』2016年8月号)

  どの連作でも瀬戸(夏子)さんがやろうとしていることは結局「短歌史との対話」、あるいはそれが困難によって成立しないさまを読者に提示することではないのか、と思われてくる。そしてその「短歌史との対話(の困難)」を読者に提示するその身ぶり自体がまたさらに作者と読者とのあいだの「対話(の困難)」でもある。 
    (吉田隼人「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」)

  短歌は「座の文芸」だと言われることもあるけれど、仮に短歌をそう呼ぶならそれは「強固な読みの共同体」のことを現時点では指すのではないかと思う。読みの恣意性は極端なまでに嫌われ、統一した(させようとする)読みのなかからそれぞれの価値観をぶつけあわせる、そして「精密で強固な読み」の「共同体」に加入するために短歌史(アララギ中心史観)の勉強を義務づけられる(ムードがあからさまに存在する)。
    
 
(瀬戸夏子「ヒエラルキーが存在するなら/としても」『川柳カード』12号・2016年7月)

  ただ鑑賞しているという事が何となく頼りなく不安になって来て、何か確とした意見が欲しくなる、そういう時に人は一番注意しなければならない 
(小林秀雄「文章鑑賞の精神と方法」『小林秀雄全作品 第5集 「罪と罰」について』新潮社、2003年)


今月『ユリイカ 特集 あたらしい短歌、ここにあります』2016年8月号が発売されました。そのなかの「比較の詩型」という論考で吉川宏志さんがこんなふうに書かれています。


  短歌は、つねに比較を誘う形式である。
    (吉川宏志「比較の詩型」前掲)

吉川さんが例示したのは、栗木京子さんの『うたあわせの悦び』における「小さな涙」を比較した二首です。


   雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ  藤原高子


   ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は  穂村弘


たとえばこの二首が時空を超えて「涙」において共振しあうように「まったく時代が異なる作品であるにもかかわらず、ある一点において響き合うということが、短歌ではしばしばある」。それは「慣習的に容易(たやす)く行われ」ることでもあり「ある意味で乱暴なこと」でもあるけれど、「好むと好まざるとにかかわらず、短歌は、古い歌と比較されることで歴史性を強く帯びる詩型である」と。

このことはこういうふうにも言えるんじゃないかと思います。短歌は〈鑑賞のひとつのスタイル〉として〈比較思考〉に基づいた形式に則りやすいと。そしてその〈比較〉の鑑賞によってどんなに孤立した歌でもある歌とある歌をつなぐことによる〈歴史性〉を付与することで〈理解〉のきっかけをつかむことができるんじゃないかと。

わたしがここでふっと思い返したのは、今回の『ユリイカ』にも参加されている瀬戸夏子さんの短歌でした。『桜前線開架宣言』において山田航さんは瀬戸さんの短歌を評してこんなふうに述べていました。

  瀬戸夏子は間違いなく現代短歌のなかでも特に重要な歌人のひとりなのだが、論じるのがきわめて難しい。なぜなら、「一首単位で表記する」という短歌の原則を打ち破るスタイルを取っているため、歌が引用しづらいからだ。 
  (山田航「瀬戸夏子」『桜前線開架宣言』左右社、2015年)

ここで山田さんは自由詩のなかにバラバラに埋め込まれた瀬戸さんの短歌を例示として取り上げるのですが、結論を先に言ってしまうと瀬戸さんの短歌の〈難しさ〉は先に述べたような〈比較思考〉が返り討ちにあるところから起こっているのではないかと思ったんです。もし短歌にとって〈比較思考〉がどれだけ難しい歌であろうともその短歌を〈理解〉するためのひとつの鍵になるなら、瀬戸さんの短歌はまずその〈比較思考〉を否定するところから始まったのではないかと。

今回の『ユリイカ』には瀬戸夏子さんの連作「解散主義」が掲載されているのでそこから引用してみましょう。


  菫色のサインは日露の娘と初恋の比喩、そう、どちらかといえば僕だ  瀬戸夏子


  その一生のやわらかな金切り声、月の真ん中で赤から緑に変わる信号  〃


  片方だけの靴下 熊が夏の太平洋でうたっていることの確かめかた  〃


  全身全霊が花の二の舞になるだろう君じゃなくても僕じゃなくてね  〃


〈解釈〉するのではなくてできるだけなにか構造的に近づいていけないかと思いながらこれらの歌をみてみるとあるひとつの〈構造〉に気づきます。それはこの連作タイトルが「解散主義」と「解散」とあるように、どこかあらかじめ「解散」し終わった地点から詠まれていることです。「そう、どちらかといえば僕だ」という「どちらか」からの〈もうひとり〉の暗示、「その一生」の「その」の暗示、「片方だけの靴下」、「君じゃなくても僕じゃなくてね」の「君」でも「朴」でもない「解散主義」。


なにかがまず決定的に〈不在〉な地点からこれら歌は詠み出されているように思うんです。だからもし解釈しようと近づいていくと、「どちらかといえば」や「その」「片方だけの」「君じゃなくても僕じゃなくてね」で詰まってしまう。


冒頭の吉川さんの〈比較思考〉の話につなげるとこんなふうにも言える。瀬戸さんの短歌がもし〈比較思考〉形式で理解しがたいものがあるならば、それはすでに瀬戸さんの短歌に〈不在〉のかたちをとって〈比較思考〉形式が《内在的に》埋め込まれているからだと。だから「その一生」の「その」は語り手にはすでに見えているはずです。それは《内在的前提》としてあるから。「その」を指示するなにかを語り手は知っている。そしてその「その」との《比較》においてこの歌は出発している。でもわたしたちにはその「その」はわからない。「その」が提示されないことによって内在化された〈比較思考〉にわたしたち読者は気づくんだけれども、それが結局〈不発〉に終わるように瀬戸さんの短歌は構造的につくられているのではないか。


実はこんなことを思ったのは少し理由があるんです。瀬戸夏子さんの第一歌集に『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(2012年)があります。その歌集には「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」という小冊子も栞としてついているんですが、その末尾に歌集の「誤植訂正」がついているんです。

  P42
  × 「しましまの 花柄の 養生している みんな大好きみんな死ね」
  ○「しましまの 花柄の すべる 不思議に いく みんな大好きみんな死ね」
 
    (「瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』について 短歌同人誌「町」&「率」同人より」)

わたしはこの「誤植訂正」にこの歌集のヒントのようなものがあるのではないかと思ったんです。読者はこの「誤植訂正」を読んでも、〈なに〉が「誤植」されたのか、「訂正」されたことで〈なに〉が変わったのかはっきりとわからない。「養生している」が「すべる 不思議に いく」に「訂正」されることでどんなことが変わるのかつかめない。でも著者にははっきりとしたある前提なりコードなりがあって、それは「誤植訂正」としてはっきりと〈修正〉されるべきものだったんです。つまり〈比較思考〉はこの「誤植訂正」からも語り手にはっきりと内在しているのがわかる。ただそれが読者には取り出せない。そういうかたちとしてあるものなんです。

まとめてみると、〈比較思考〉というのはそもそも鑑賞者にとっての歌への〈理解〉の態度の話です。たとえば穂村さんの歌を藤原高子と「涙」を通して「比較」することで新たな穂村さんの/高子の歌の側面が見えてくる。でも瀬戸さんの歌はそうした鑑賞者のスタイルを歌の構造そのものによって〈棚上げ〉にしようとするものではないか。そのことによって〈鑑賞者のスタイル〉そのものが〈一時的・偶有的〉な歴史的制度そのものであると言っているのではないかとも思うんです。大きく言ってみれば。

鑑賞しようとすること、読もうとすること、理解しようとすることそのものが〈そのまま〉歴史性として開示されてしまう。それが瀬戸夏子の短歌に〈出会う〉ということなのではないかと思ったんです。

「そのなかに心臓をつくって住みなさい」。「その」という任意な歴史的存在であっても、解釈することの困難さの「なかに」、わたしなりの「心臓」を「つくって住み」込まなければならないということ。そういうあなたとわたしが共有できない歴史的存在であることを引き受けること(「心臓」は共有できない!)。それが瀬戸夏子に〈出会う〉ということなのではないか。

   ついさっきのことなのに 花丸をつける 命をあげる どんな曲だと考えて  瀬戸夏子

  (「イッツ・ア・スモール・ワールド」『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012年)


  短歌とは比較の詩型である、と私は書いた。しかし、どうしても比較できないものが、一首のなかに澱のように残る。それは死であり、死を帯びている生である。それはいくら「うたげ」が続いていても、消え去ることがないものであった。  
 (吉川宏志「比較の詩型 そして比較できないもの」前掲)






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