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2016年6月10日金曜日

【短詩時評 Voice.20】〈わたし〉を呼びにゆく-ムーミン・江代充・佐藤みさ子- / 柳本々々




 おそらくは自他の声もきこえなくなることだろう
 それからさきは藤のたてがみを馴らすとか
 その藤とわたしのような
 しきりとわからない関係になるのだとおもった
  (江代充「藤棚」『現代詩文庫212 江代充詩集』思潮社、2015年)

 どの句も自分が書かれている。しかし、川柳の命題でもある「私性」とはまだ少し距離があるようだ。「私性」と「わたくしごと」の違い。このいちばん大切なところを時間をかけて議論したい。
  (石部明「やさしくて強靭なことば」『バックストローク』創刊号、2003年1月)

  だれも居ない家ですみんな居た家です  佐藤みさ子
   (佐藤みさ子『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)


前回の〈虚構〉の問題とも関わってくるのですが、今回は詩のなかの〈わたし〉について考えてみたいと思うんです。そこで〈わたし〉の話を始めるにあたってまず起点をムーミン谷においてみようと思います。ムーミン谷のミイがこんなことを言ってるんです。

 「いっとくけど、闘うことができなけりゃ、永遠に、自分の顔なんて、持てないのよ」
  (トーベ・ヤンソン、渡部翠訳『ちびのミイの名言集』講談社、2010年)

これは『ムーミン谷の仲間たち』の「目に見えない女の子」という話のなかで、あまりにおばさんに皮肉を言われすぎて姿が透明になってしまった女の子のニンニにミイが言った言葉です。

注意してみたいのは「自分の顔」が〈わたし〉に対して距離感があるということです。ミイが透明になってしまった女の子ニンニに言っているのは〈わたし〉というのはきちんと自分で〈呼びにゆ〉かなければならないものであるということです。わたし=わたしという即自的なものではない。「闘う」とミイが言っているようにそれは対自するものである。〈あらかじめ〉わたしは〈わたし〉を持っているわけではないのです。それを小さなミイは、知っていた。

この〈わたし〉が〈わたし〉を呼びにゆく態度としての〈私性=姿勢〉のあり方。これを今回は現代詩と現代川柳から考えてみたいんです。

『現代詩手帖』2016年5月号に「江代充が拓くもの」として詩人の江代充さんの特集が組まれました。江代充さんのまとまった詩集は2015年4月に現代詩文庫から『現代詩文庫212 江代充詩集』(思潮社、2015年)が刊行されています。

江代充さんの詩というのは、〈わたし〉が独特な質感をもって配置されるのが特徴的だと思うんですが、上田眞木子さんが江代さんの詩の〈わたし〉についてこんな指摘をされています。

 江代さんの作品では「私」に特権化された主観は知覚のレベルにまで削ぎ落とされている。初期作品の多くで、「私」が「既知の主題」をあらわす係助詞「は」でなく、主格助詞「が」をともなって新しい登場人物として現れるのも、「他ならぬ私が」という強調ではなく、「誰かと言われれば何某ではなく私が」という距離感のある主体意識の現れである。

  (上田眞木子「江代さんが読みたい」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)

この〈わたし〉が〈わたし〉の主観=主体になれない感覚は小池昌代さんも、

 江代の歩行は、自分でもわからない自分の心をたどることにもなっていると思う。
  (小池昌代「言葉の地熱」『現代詩手帖』2016年5月号)

と述べられていたことと通底しているように思うんです。江代さんの〈わたし〉は〈わたし〉に向かいつつも・呼びにゆきつつも、「既知」の〈わたし〉にはいつまでもならず、それは同化しないかたちで「たど」りつづけることしかできないのだと。

ここで少し江代さんの詩から〈わたし〉をめぐる記述箇所を具体的に引用してみたいと思います。

 茎のゆびのあと 錆びた組み鉄 黒髪を手に取ると わたしは重たがった 
(江代充「(黒髪とシグナル)」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)

 晴れあがった枯木をふたたび確かめるために 私は向うからやってきた   
(「マリアの坂」前掲)

 眠るのはわたしだが わたしのままであるという門からは入れない そのひとのいるにまかせること そのうちにそれをつくり それをみているわたしだけが 不思議だが眠りのうちへはいっていく
  (「露営」前掲)

「わたしは重たがった」というあたかも〈わたし〉が〈わたし〉を距離をおいて観察しているような〈わたし〉の記述。「私は向うからやってきた」「わたしだが/わたしのままであるという門からは入れない」という〈わたし〉の乖離。

〈わたし〉は「わたし」として記述されつつも、〈わたし〉が主体的・主知的に機能することはできず、〈わたし〉から分離された〈わたし〉として語られているのがわかります。

そこから考えてみるに、江代さんの詩においては、言葉が語られる前提として〈わたし〉というものがあらかじめ〈わたし〉から排除されているのではないかと思うんです。だから、〈わたし〉は〈わたし〉に何度も遭遇し、再会しなおさなければならない。なんども出会っては別れ、また、〈呼びにゆ〉かなければならない。

〈わたし〉は〈わたし〉を手にいれることはできない。〈あなた〉以上に。

 まだ見ぬわたしの国へかえろうと
 わたしは生きる
 あらゆる壁は
 人がそのむこうへ立ち入ったすえ
 そこにいる当のわたしが
 地続きのこちらがわへと
 まず最初に立ち退いてこなければならない
 そんな所だから
 却ってわたしこそ
 ひみつをもつのだろう

   (「初めのエルに打たれて」前掲)

この詩において「そこにいる当のわたし」という〈当〉事者の〈わたし〉は「こちらがわ」へいる人間ではありません。「立ち退」くことでやっと「こちらがわ」へ来るような〈むこうがわ〉にいる「わたし」なのです。「まだ見ぬわたしの国」。

この江代さんの詩における〈わたし〉をつねに呼びつづける〈わたし〉というのは実は他の詩のジャンルにも通底していると思うんです。それが現代川柳です。

ところで現代川柳において〈私性〉の現状はどうなっているのでしょう。

現代川柳を思想的にマッピングした堺利彦さんの『川柳解体新書』という本があります。そのなかで堺さんは、楢崎進弘さんの「私と他者を重ねて、なお重ならないところまで書いていく」広瀬ちえみさんの「誰のものでもない「私性」にまで持っていけるのが理想」という言葉を引きながら「粘着的な〈私性〉の止揚の問題」をどう突破できるかが現代川柳のひとつの課題になると整理しています。

 いま、時代の危うさの中で、作者と作品とが一体となった粘着的な〈私性〉の止揚の問題に、一部の人たちが意識的に向かっていることも事実です。
 (……)
 このことは、これまでの〈私性〉が、一つには、もともと虚構であるはずの作品を、〈私〉と〈語り手〉の混同により、〈語られた私〉=〈実生活の私〉としてナマに還元してしまっていたことと、もう一つには、本来、〈他〉と区別されるべき私自身の特異性の〈出来事〉の表現が、出発点からして、〈他〉との共通性なり重なりという普遍の場所からの発信でもあったことを意味します。
 

  (堺利彦「非在」『川柳解体新書』新葉館ブックス、2002年)

べったりした〈わたし〉と〈わたし〉の同化ではなく、〈わたし〉と〈わたし〉の分離をどう言語表現として〈止揚=昇華〉していけるかという問題。

楢崎さんも広瀬さんも〈べったりしたわたし〉ではなく、〈わたしがわたしを語りながらそれでもわたしのものにならないようなわたし〉を語り志向しています。これはさきほどの江代さんの詩の〈わたしのものにならないわたし〉にも通底していると思います。

この「〈私性〉の止揚の問題」を考えたときに、それを突き詰めて言語化した川柳作家のひとりに佐藤みさ子さんがいるのではないかと思うんです。

佐藤みさ子さんは『呼びにゆく』(あざみエージェント、2007年)という句集を刊行されていますが、〈私性に対する姿勢〉はすでに佐藤さんのこの句集のタイトルにもあらわれています。

『呼びにゆく』というタイトル。

「呼びにゆく」ということは、これから呼びに〈むかう〉ということですが、呼びにいったのですから呼んだあとでまたこちらに〈帰ってこなければなりません〉。この句集タイトルは、そうしたAとBの地点を往還するブーメラン的な空間を象徴しています。

このタイトルの「呼びにゆく」が取られた佐藤さんの句をみてみます。

  たすけてくださいと自分を呼びにゆく  佐藤みさ子     
(佐藤みさ子『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)

〈わたし〉が「呼びにゆく」対象は「自分」です。これから「呼びにゆく」わけですから、ここでは「自分」は〈まだ存在していない・どこかよそにあるもの〉として描かれています。「自分」を〈呼ばれるわたし〉と措定することによって、〈わたし〉は〈わたし〉から遠方に突き放されています。しかし突き放しているままではなく、「呼びにゆく」のですから、〈わたし〉はこれから「自分」を〈ここ〉にひっぱってこようとしようとしている。呼んでこようとしている。

川柳という言語表現を通して〈語るわたし〉が〈語られるわたし〉を〈呼びにゆ〉くこと。これがもしかしたら川柳のひとつの〈私性〉の到達した〈あらわれ〉なのではないかと思うんです。語る〈わたし〉が語られる〈わたし〉を通してブーメラン状に往還的に浮かびあがってくるときにはじめてそれは〈わたくし事〉を離れ〈わたくし性〉として浮かび上がってくる。

〈わたし〉が〈わたし化〉することはできないが、しかしそれは〈わたし〉と呼ぶしかないような〈わたし〉を呼びにゆく。


  午後二時のからだ探して木から木へ  佐藤みさ子


  どこまでが椅子でどこから身体だろう  〃


  もうすこし掘ればでてくるわたしたち  〃


  正確に立つと私は曲がっている  〃


  振り向いてみるとわたしが幾人も  〃

これらの句はどれも〈わたし〉が〈わたし〉と向き合ったときに起きてしまったイヴェントですが、大切なのはどの句においても〈わたし〉が〈わたし〉をけっきょくは所持も把持もできずにいる点です。それは探索の継続として(「木から木へ」)、境界の曖昧性として(「どこまでが/どこから」)、潜在的な複数性として(「でてくるわたしたち」)、正しいいびつとして(「私は曲がっている」)、背後のわたしの繁殖として(「わたしが幾人も」)、あらわれている。

どの〈わたし〉も志向することができ、〈呼びに〉いくことができるものの、さいごまで〈わたしの在処/所在〉がわからないものとしてある。でもその〈わからない〉プロセスのなかでしか、浮かび上がってこない〈わたくし〉としても同時にある。

それが佐藤みさ子さんの川柳の〈わたくし〉だと思うんです。そしてそれは同時に江代さんの詩の〈わたくし〉でもあると。

つまり二人の〈詩〉から私が教えてもらう〈わたし〉とは、それは決して〈わたくし性の止揚〉というかたちなんかではなくて、むしろ〈止揚の未遂〉、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉を相反合一させることの《失敗》にこそ、〈私性〉をさぐるひとつのみちすじがあるのではないかということなんです。

〈わたし〉を〈わたし〉によってたえず骨折させること。

  首のない背中が人をかかえこむ  佐藤みさ子

だからもしかしたら〈わたし〉をなくしてしまいつつも、その消えた〈わたしの残りかす〉=呼びかける透明な存在として生きていた透明な女の子のニンニは〈わたしのひみつ〉に人知れず近づいていたのかもしれません。

〈わたしのひみつ〉。すなわち、わたしの〈わたし〉はいまだかつて存在〈すら〉していないということ。

  死んだ人も生まれた人もまだ居ない  佐藤みさ子

 隣室のうたうような遺骸から
 ふかい安堵にめぐまれた夜のこと
 できるかぎりくわしく
 あなたの職業をかたりなさいと
 ゆめのなかでいわれた
 できませんとわたしがいうと
 水の透明でかわいたようにみえる川床に
 石を投げこみ
 月の光でみたしてあゆみなさいというので
 揺れうごいてこたえた
 

  (江代充「わかれのかた」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)





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