【俳句新空間参加の皆様への告知】

【防災/BOSAI】

【ピックアップ】

2016年4月22日金曜日

 【時壇】 登頂回望その百十一~百十三 /  網野月を


その百十一(朝日俳壇平成28年3月28日から)

                          
◆鉄橋に近き祖父の田たにし鳴く (嬉野市)秋山和江

大串章の選である。田螺が鳴くかどうかの議論は他に譲るとして、鉄橋の近くに祖父の田があるということのステュエーションがすなわち詩的内容を有しているようだ。鉄橋の竣工は何時頃の出来事であったのだろうか?「近き」の距離感はどれ程であろうか?詳しい時空間を言わずに済ませた句の世界観にこそ田螺は鳴けるものなのかも知れない。

◆リヤカーに園児満載風光る (東京都)三輪憲

大串章の選である。「園児」は幼稚園児ではなくて保育園児であろう。この光景を筆者の住環境の中で、近頃よく見かける。年長の園児はロープを持って数珠繋ぎに行列して散歩を楽しんでいるのだが、何人かの年中年少の園児は大きめのカーゴに立って乗せられて、歩まないのだが同じく外歩きを楽しんでいるのだ。

時間持ちの園児らの無限の力に風は光を増している。

◆笹鳴を聞かむと来れば初音かな (東かがわ市)桑島正樹

稲畑汀子の選である。評には「二句目。鶯の笹鳴を聞きに出掛けたつもりが、もう初音となった。作者の予想外の感動が伝わってくる。」と記されている。中七の「・・れば」から座五の「・・かな」は俳句作りの常套手段と言って良い構成を有している。それだけにこの俳句には新味が薄いのだが、笹鳴の期待値が初音に昇華した事実は評の言う通り、やはり「予想外の感動」なのである。
少々艶っぽい意にも解してしまうのは、鴬が伝統的に包含する下世話な意味の広がりがあるからかも知れない。

◆山入れて春眠深き水たいら (飯塚市)古野道子

金子兜太の選である。筆者には難解な句であるが、それでも大変な魅力を感じないわけには行かない句である。座五の「水たいら」をどう読解するかなのだが、湖面もしくは水面が「たいら」と筆者は解した。湖面に映る山影は未だに冬からの深い眠りの中にある、ということかしら?上五の「山入れて」を山影を映してと読んだのであるが。


その百十二(朝日俳壇平成28年4月4日から)
                         
◆朝桜大東京に着任す (下関市)隅田雅子

大串章の選である。上五の「朝桜」を見た瞬間に作者は東京に着任したことを実感し、事実を受け容れたのである。転勤にはドラマがありそうなのであるが、それは言わないのだ。座五の「・・す」の終止形のすっきりした言い方から察すると何らかの心の透いた感がある。身の引き締まる思い、というやつではないだろうか。「朝桜」と対になって清潔さ漲る句である。

◆淡雪や風ともなへば風に消ゆ (富士吉田市)小俣紀子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。寒暖の差のはげしい春。時雨が雪になり淡雪となって消える。その変幻を楽しむ作者。」と記されている。もちろん風の中へ消えゆくのは淡雪なのであろうが、上五は「・・や」の切れ字になっているので、淡雪に他の何ものか、例えば作者自身の想いを投影しているようにも読める。切れ字「や」は効果が大であり、多様であるということか。

◆妖精の白き踝青き踏む (西宮市)近藤六健

稲畑汀子の選である。幼児の野遊びの図であろうか。この「白き踝」をに繋がる足裏で「青き」は踏まれる草々である。踏む方も踏まれる方も柔かくて、この世に生まれ出てきたばかりのものたちである。正確には、踝は足の外側にあるので、直接に「青き」に触れることはないのだが、充分に句意は伝わってくる。

◆山笑ふそんな気がして目が覚める (川崎市)池田功

金子兜太の選である。評には「池田氏。中七の思いつきが旨い。」と記されている。評の通り「そんな気がして」が不思議なロジックを醸し出している。「そんな気がし」ただけならば、山は笑っていないのである。つまりまだ山の木々は芽吹いていないのだ。が、上五の季題「山笑ふ」自体が擬人法であるので、もともと山は笑わないのだ。その点を逆手にとって、山は笑わないのだが、笑ったように感じられて・・、しかも夢見心地から醒めたというのである。
 

その百十三(朝日俳壇平成28年4月10日から)
                      

◆動かねば万歩計ゼロ山笑ふ (熊本市)内藤悦子

稲畑汀子と大串章の共選である。俳句の諧謔性というような大きなテーマで云々する句ではないだろう。只々、面白いのである。笑っている山は「不動如山」である。

◆一切が水の光や花の昼 (船橋市)斉木直哉

長谷川櫂の選である。評には「一席。この世の何もかも、水がきらめくように光っている。花の力。」と記されている。評にあるように「花の力」なのであるが、「花の力」の源は「水の力」ではないだろうか?上五中七の「一切が水の光や」の措辞からはそう読むことが出来るだろう。座五の「・・の昼」の解決は些か安易な気がする。

◆われも独り彼も独りや西行忌 (二本松市)安齋くみ子

長谷川櫂の選である。評には「三席。「彼」は西行とも別の誰かととってもよい。さびしさに耐える人。」と記されている。評のように「彼」の存在の誰かということは読み手に任されていることであろう。ただ「独り」を「さびしさに耐える人」と読むかどうかは疑問である。西行にしてからが、「独り」故に「さびしさに耐え」ている人ではなかっただろうと筆者は考えている。

◆チューリップ並びて風の並びけり (磐田市)谷公子

大串章の選である。評には「第三句。「風」が並ぶと言ったところが面白い。」と記されている。普段は目に見えない風をチューリップの戦ぎに確認したのである。チューリップが花壇に列をして植栽されているので、その列の並びから風も並ぶという表現が生まれたのである。座五の「けり」が効果大である。



(「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)

0 件のコメント:

コメントを投稿