【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2016年3月4日金曜日

 【時壇】 登頂回望その百~百四 /  網野月を

その百(朝日俳壇平成28年1月11日から)
                           
◆枯野果つ信号を見て人の世へ (彦根市)阿知波裕子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。好きに歩ける枯野が終わり、現れたのは信号のある道である。人の世と分けた面白さ。」と記されている。自然と人工の対照、自由と束縛の対照などは日常では同居しているもので判然としないものである。混合していると言ってもよいだろう。作者は、「枯野」と「信号」にその境界線のあることに気付いたのだ。自然から人工へ、自由から束縛へと移行する方が、その逆に人工から自然へ、もしくは束縛から自由へ移行するよりも明確に差異に気が付くことだろう。

◆顔見世やはねて日頃の貌となり (千葉市)谷川進治

稲畑汀子の選である。評には「二句目。年末を彩る歌舞伎の顔見世で楽しんだ表情を、日常の顔へ戻すとは妙。」と記されている。東京の銀座(旧木挽町)にある歌舞伎座の顔見世興行は十一月である。昨年は例年同様に「吉例顔見世大歌舞伎」と銘打って、「松竹創業百二十周年」「十一世市川團十郎五十年祭」の副え題も付けられている。十一代目のひ孫にあたる堀越勸玄が初お目見得もあって盛況であった。歌舞伎の世界は十一月が年度の始まりである。吉例と称して、座の大看板の役者から花形の役者まで一堂に勢ぞろいするのが習わしだ。評の通り貌を戻すことになるのは役者ではなくて観客であろう。思わず力が入って役者と一緒に表情を作って観ているものだ。
最近は松竹も大規模になり、大阪松竹座をはじめ、京都四条の南座、新橋演舞場、明治座などなどにも興行を拡げているので、なかなか一堂に会するとは言えないようだ。因みに大阪での吉例顔見世は十二月にずれ込んでしまう。

◆病舎の冬生も死もただ仰向けに (平塚市)日下光代

長谷川櫂の選である。評には「一席。生きているときも死ぬときも、端然と横たわっている。病棟に並ぶベッド。」と記されている。厳粛な死を描写して中七から座五への「ただ仰向けに」の把握に不足を感じない。饒舌では決してなく、といって舌足らずにもならない。短詩の形を有する俳句にとって最も肝心な叙述の仕方をしている。とすると、上句の「病舎の冬」が多少弛緩して読める。


その百一(朝日俳壇平成28年1月18日から)
                           
◆冬帝の笑まふ一と日となりにけり (神戸市)池田雅一

稲畑汀子と大串章の共選である。「笑まふ」とあるので、暖かくなった様子、過ごし易い日和を叙しているのだろう。座五の「なりにけり」は別の措辞を用いて句意を展開する仕方もあるが、掲句は言い切っている。好天のみを言いきって、他を無視しているのではない。ままの句意それのみで、この好日を表現し尽くせると作者が感じたのである。

◆私らも平和が総て嫁が君 (養父市)足立威宏

金子兜太の選である。評には「足立氏。正月三が日くらい鼠さん頼むよ。」と記されている。選者は「平和」の文字に敏感である。元より、「平和」は最も大切なものである。上五中七の句意に季題「嫁が君」を配したのだ。三が日の鼠にもとっても「平和が総て」と読みたい。

◆義士の日に誘ひ合ふ友ありにけり (弘前市)千葉新一

金子兜太の選である。周知のように十二月十四日である。新暦ならば一月の三十日くらいになるであろうか。作者は自らを義士に擬えて、同じく義士と見做した友人と一献酌もうというのだ。忘年会の季節でもあり、なかなかに乙なものである。座五の「ありにけり」が古風な感じを一層補っている。

地方によっては討たれた側に肩入れして、吉良祭の法要が営まれる。

◆ふつとびしもの帰らざる大くしやみ (鶴岡市)野村茂樹

長谷川櫂の選である。漢字が二つ「帰」「大」がある。「ふつとびし」「くしやみ」も仮名書きの方が語感が膨らむような気がする。どういう語感かはともかくも、意味合いが膨張するように筆者には思える。「くしやみ」が何かを吹っ飛ばしたのではなくて、そのものが「ふつとびしもの」のなのである。

その百二(朝日俳壇平成28年1月25日から) 
                          
◆芭蕉忌や吾も枯野に近づきて (河内長野市)西森正治

金子兜太と大串章の共選である。大串章の評には「第一句。「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る 芭蕉」を踏まえる。残る時間を大切にしたい。」と記されている。季題「枯野」は地理の分類であり空間を示しているが、「枯野」へ向かって散歩している訳ではなかろう。冬の季題であって掲句には時間を暗示する意味合いで詠み込まれている。「近づきて」は時間のそれである。評の通りである。評にある芭蕉の有名句は座五の「駆け廻る」から人生の晩年の焦燥感を滲ませているが、掲句はある種の清々しさ、安堵感を匂わせている。

◆裸木を男らしさよ女らしさよ (藤岡市)飯塚柚花

金子兜太の選である。上五の「・・を」の後に何を補って読めばよいだろうか?「見るにつけ」「見做す」くらいの語彙であろうか?そうすると中七座五の「男らしさよ女らしさよ」は、その樹木の容姿か?実際(雄株、雌株)か?存在意義か?言い尽さない分、読者の想像をかき立てる句作りである。一本の樹木に両性の性質を見ているのかも知れない。とすると「裸木」はある種の人間の擬木法とでも言うべきか。

◆死に遅れたるが負目の賀状書く (下関市)山本洗脂

長谷川櫂の選である。どうしても先の大戦を想像してしまう。筆者は戦後生まれで戦争を知らないが、父が出征した経験を有している。老父から戦争の話を聞く。とみに最近は戦争の話を聞くことが多くなった。

この場合、「賀状」は誰宛てに書かれているのか?興味をそそるが、年に一度の「賀状」を書く度に「負目」を感じている事が主眼なのである。「賀」の文字が表現することが、大きい一句である。

◆平年の寒さに安堵することも (枚方市)中嶋陽太

稲畑汀子の選である。評には「一句目。暖冬は有り難いが地球を思って温暖化を心配する。寒い朝を迎えた作者の心の推移が描けた。」と記されている。上五の「平成の」の指示する意味は何であろう?すでに二十八年を迎えた「平成」であり、十年間、二十年間の時間の中で、評の通り地球温暖化と考え合わせることも出来るだろう。また昭和と比較するところの「平成」と捉えることも出来るだろう。とするとこの「寒さ」は浮かれた気持ちを漸くおさめた、永遠に発展があることが幻想であることに気が付いた人間のことであろうか。


その百三(朝日俳壇平成28年2月1日から)
                          
◆八勺の飛切燗や日の終り (岐阜市)阿部恭久

長谷川櫂の選である。評には「三席。飛切燗とは威勢がいい。寒中の一日を熱くしめくくる。」と記されている。燗には、様々あるようだ。温る燗、人肌燗、上燗、熱燗、飛切と熱さが増すごとにその呼び方も工夫されている。一昔は燗と常温(「冷や」はかつては常温の呼び方であった)、だけであったが、昨今は冷蔵技術の恩恵で冷酒という分野が幅を利かせている。最近「日向燗」という呼び方を知った。著名なソムリエが広めていらっしゃる呼び方だそうだ。
中七の切れ字「や」が「飛切燗」の威勢良さを確実に表現している。お酒の句作りは、酒を嗜む人の特権のように思う。

◆初夢の母は死にたること知らず (横浜市)山口功

大串章の選である。評には「第一句。初夢に出て来た母、自分が死んだことも知らず楽しそうに話している。」と記されている。筆者も評の通りの句意であろうと思う。「初夢」ならではの吉事であろう。嬉しいことである。たとえ夢の中でも元気な母御に会えるとは何とも羨ましいことである。

◆風花の母逝きし日も舞ひしきる (伊賀市)西澤与志子

稲畑汀子の選である。上五「風花の」で少々の切れを作り出している。「風花」を見ていると母親の命日の様子を思い出す、ということである。中七の「・・し」は過去の事象を呈示しているように用いられているが、座五の「舞ひしきる」の時制は現在形である。掲句のような時制の併用は俳句においては普通に行われていることである。一種の表現の常套手段と言っても良いだろうか。英語への訳の際に最も難しいポイントの一つであろう。

掲句の場合、「風花」を見ているのは今現在であり、作者が母の思い出を想起している現在の出来事である。座五の「舞ひしきる」は母の命日の出来事であり、過去の事象だが、上五を受けて今現在の事象とも重なっているのだ。

◆雪吊りの弦響き合ふ村の真夜 (養父市)足立威宏

金子兜太の選である。評には「足立氏。雪降る孤村の閑寂、染み入るばかり。」と記されている。評は句の空間指定の「村」を過大評価しているようだ。「村」の設定は作者の実態であり、「真夜」の時間設定のプライオリティーを空間指定より高く考えれば、「孤村の閑寂」というよりも「真夜の厳静」の句景を読み取りたい。


その百四(朝日俳壇平成28年2月8日から)
                           
◆雪よ降れ蝦夷人それに従ひぬ (小樽市)阿部恭久

稲畑汀子の選である。評には「一句目。日本列島の北に位置する北海道。雪が降ることを諾う人々の暮らし。」と記されている。「蝦夷人」の底知れぬ強さを感じる。座五に「従ひぬ」といいながら、十分に雪に対応するよ、と言うことである。雪には負けないよ、ということである。それでも「従ひぬ」という叙述は、自然に対する敬虔な態度を含めてのものであろう。

◆冬濤の卸し金てふ海の面 (芦屋市)酒井湧水

稲畑汀子の選である。評には「二句目。荒々しい冬の濤面はまるで卸し金のよう。厳しさが淡々と描けた。」と記されている。この「卸し金」は大根を卸す例の竹製の山の大きな卸しではないだろうか。生姜用の細かい山の「卸し金」は想像しにくい。卸し金の山形と冬濤の山形が重なるが、厳しさや荒々しさといった本質を取り合わせたものであると思う。

◆病妻を人形のごと梳き初め (盛岡市)松田昭雄

金子兜太の選である。評には「松田(昭)氏。中七に籠もるのはやはりいとしさか。」と記されている。夫婦の愛情の濃やかさが横溢としている。「人形のごと」は座五の「梳き初め」に対して副詞的に働きかけているが、「病妻」の状態をも叙述している。淡々とした言い方に情に流されることのない、俳人としての作者の厳しい目がある。

◆するめ嚙み奥歯大敗大旦 (三郷市)岡崎正宏
長谷川櫂の選である。評には「三席。相撲の行司のように囃してはいるが、一抹の悲哀。」と記されている。するめvs奥歯の構図である。相撲の勝敗も「大旦」の季題で括るとおめでたい雰囲気が演出される。季題の影響力の何と大きいことかを感じる。評にあるような「一抹の悲哀」は一種の諦念であろう。





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