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【ピックアップ】

2016年2月19日金曜日

 【時壇】 登頂回望その九十七、九十八、九十九 /  網野月を

その九十七(朝日俳壇平成27年12月13日から)

                          
◆雨だけが冬田癒してをりにけり (豊中市)堀江信彦

稲畑汀子の選である。例年に比べて雨が多い年の暮れである。句意は上五中七に集中して語られている。座五の「をりにけり」は俳句としての尾っぽ(音楽で言うところのコーダ)のようなものである。ドラゴンの尾のように先っぽが鈎になっているものもある。カンガルーのようにその生態に不可欠のものもある。中七を「冬田を癒す」というように短く言い切って、座五を別に展開する仕様もあるかと思う。尾っぽの有無は句作りの趣味が演出されるところでもある。

◆折からの夕筒を眼に穴惑ひ (洲本市)高田菲路

金子兜太の選である。評には「高田氏。「夕筒を眼に」蛇穴に入るとは、洒落すぎるほど。過ぎたるも及ぶことあり。」と記されている。輝く星影を瞼に焼き付けて「穴惑ひ」が眠りに入ろうとしている。語彙としての「夕筒」は評の言う通り洒落ているが、冬眠を迎える蛇と宵の明星の取合せは着き過ぎているかも知れない。

◆パソコンのゴミ箱無限大掃除 (富士市)蒲康裕

長谷川櫂の選である。評には「一席。パソコンにはゴミ箱なるものがある。宇宙に通じているかのような無限のゴミ箱。」と記されている。現代の大掃除の有り様だ。「パソコンのごみ箱」へ捨てる意なのか?それとも「無限」の「ゴミ箱」の中をきれいにしようと言うのか?どちらであろうか。
最近の作家はパソコンを使用する機会が多いだろう。掃除したはずのゴミが後の世に回収されて、偉大な芸術家の創作過程が解明されたりすることを想像するのは楽しい。が政治家のパソコンから隠蔽されたその政治家の裏舞台が再現されて具合の悪いことにならないようにしたいものだ。



その九十八(朝日俳壇平成27年12月21日から)
                          
◆狩人の獲物担げるしじまかな (ドイツ)ハルツォーク洋子

金子兜太の選である。評には「洋子氏。まだ生きものの臭いもある。妙に静かな一とき。」と記されている。何とも出来過ぎの感がある句である。山中で獲った獲物は担ぐしかないのである。実際に担ぐのは狩人であり、しじまがその景を蔽っている。掲句のような表現、ロジックの方向性は許されているのが俳句である。

◆北風や地球まるごと宇宙船 (松戸市)吉田正男

長谷川櫂の選である。評には「一席。北風の季節になると、いよいよ実感。地球は一つ。」と記されている。誇張の旨味が発揮されている。無論地球の反対側は夏であり、「北風」ではないのだが、それほどに「北風」の吹きっぷりが凄まじいということである。中七の「地球」を「まるごと」に把握するのは俳句の世界ならではの叙法であろう。

◆湯豆腐の光の中へ沈みけり (静岡市)松村史基

長谷川櫂の選である。評には「二席。アルミの打ち出し鍋ですると、室内の明かりが光の玉となって鍋の中に沈む。その中で揺らめく豆腐。」と記されている。上五の「・・の」は主語を表す「の」か?所有の意味の「の」か?主語を表すのなら評のようにアルミ製の鍋へ豆腐を投入したのであろう。が、所有の意味の「の」であれば土鍋へ投入したのであろう。所有の意味の場合は、何が「沈」んだのか判然としない。やはりアルミ製の鍋であろうか。それにしても「光の中へ」が抽象的に過ぎる感がある。

◆日に干せし布団の中の日向ぼこ (八王子市)間渕昭次

長谷川櫂の選である。筆者には経験がある。これは実に温かいものだ。日向の匂い、お日様の匂いがして、堪らなく懐かしい感じがする。昨今は寝具がベットになって上掛けは干すのだが、なかなかマットは干す機会が少ない。上五の「・・し」は別の叙法もあるだろうか。



その九十九(朝日俳壇平成28年1月4日から)
                          
◆まだ夢を見つづけてゐる枯木かな (廿日市市)伊藤ぽとむ

長谷川櫂の選である。評には「三席。花の夢、緑の若葉の夢。一切を枯れ木の心のうちに秘めて。」と記されている。中七の「・・ゐる」は終止形として捉えるのか、連体形としてとらえるのかで意味が動いてくる。この「枯木」は春になって芽吹く木である。つまり今眠っているのであって、夢を見るのである。評は中七の後の切れを優先して「夢を見つづけ」る作者が「枯木」を視界に収めて、より夢の思いを深くした、ということになろうか。この場合は作者の夢は決して眠っている時の夢にかぎらないことになるであろう。

◆蝶も蛾もみな冬籠り山の息 (酒田市)伊藤志郎

長谷川櫂の選である。上五の「蝶も蛾も」はいささか技巧的なのであるが、「冬籠り」している生きものたちが実は息していて、それを山全体の気息として感じている作者の感性は余ほど深い。春を待つものたちの息づかいが山に籠っているのである。

◆風邪ひかぬやうにやうにとひきにけり (川西市)上村敏夫

稲畑汀子の選である。評には「二句目。風邪をひくときはそんなものであろう。実感が描けた。」と記されている。実感というよりも実態である。うがい、手洗いなどを励行して着衣も寒くないように考え抜いていたのである。用心に用心を重ねたのに引いてしまった。・・つまりインフルエンザである。俳句的表現が引き出した実際であろうか。

まあ、引いてしまえば同じであるが。

◆また何か探しはじめし湯ざめかな(大阪市)西尾澄子

稲畑汀子の選である。このとぼけた言い回しに諧謔を感じる。中七の「・・し」の意味するところは何であろう。探し始めるという意味と「し」の意味合いと「湯ざめ」してしまった現実の時制がどのように時間軸に配列されるのか?難しいように感じる。



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