1】 和田悟朗の虚子論を中心に
A. 「俳句研究」誌上の《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》のこと
このエッセイ《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》を読んだのは、初出の「俳句研究」昭和六十年三月号の特集の一文である。[特集・高浜虚子論 Ⅰ]の執筆者の一人として寄稿されている。悟朗の本では『俳人想望』におさめられている。
ざっと読み比べてみたら、初出を直している気配はないので、『俳人想望』の方で読むことにする。が、もとの雑誌を読む楽しみもあり、両方を座右においている。
最初に余談を出してしまうのだが、この「俳句研究」の登場作家が、たとえば最近句集にまとめられた矢上新八『浪華』は大阪弁を使って一句をなしている句群集成であるもので、この号にはその始まりのころような十句が並んでいる。(それらは句集には収録されていないようだが、下記のようなもの。)
雨ん中そやから鳥も素足で居る 矢上新八 (未定、草苑 所属)
当時、澤好摩、夏石番矢らのいた「未定」は、攝津幸彦、長岡裕一郎、大井恒行、大本義幸らの「豈」と並んで、登場し始めた戦後世代の牙城の位置を持ち、この号は、七〇〜八〇年代ニューウエーブと私に摺りこまれている、上記の名前以外にも、江里昭彦、小西昭夫、小林恭二、増田まさみ、田中裕明、長谷川櫂、四ツ谷龍・・・。ワーなつかしい、と言いたいような、メンバーである。高柳重信が俳句研究でしかけた五十句競作に応募してきた青年たち、今で言えば、俳句甲子園、芝不器男俳句新人賞、新撰21など、ピックアップされて来ているそういう若手世代である。その戦後世代への転換期には、和田悟郎も赤尾兜子や橋閒石を先立てた、関西出身の少壮の俳句作家であった。
和田悟朗は、そういう台頭のなかでも少壮の俳句の先達として、ここでは長文の虚子論を差し出している。参考までに、この号の【特集・高浜虚子論 Ⅰ】の執筆メンバーを記しておく。
目次によれば、
高浜虚子の俳句・俳句観・人生観(川名大)*虚子の茫漠と断定と(和田悟朗)。
他力の俳句(岡井省二)*雑詠とその周辺(小澤實)* 選者高浜虚子(福田甲子男)*
小諸時代の虚子(宮坂静生)*先駆者虚子(本井英)。
という面々が虚子について様々な角度から切り込んでいる。特集の[虚子論第Ⅱ]を抑えておいた方がいいのだが、残念ながら、手元にその次号がないので調べが間に合わない。和田悟朗の最近のエッセイ風の文章を読む機会はおおかったが、昭和六十年(1985年)のこのころ自分が考えていたことがわかるのはありがたい。和田悟朗の戦後の俳句史への理論作業の跡を読み、あらためて、大きな時代に包まれている認識者の姿を見た、それが、新たな発見でもありたいそう嬉しいことであった。
B. 『俳人想望』の中の《虚子の茫瀑と断定とー高浜虚子論》
さて、この文章は『俳人想望』に収められている。昭和六十年刊行の随想集『現代の諷詠』に続くものであり。、作家論、句集評を集めている。一書にまとめられた時には、和田悟朗の俳句や他の文章との関連で考えられることが多いが。雑誌にあっては、当時かなり高浜虚子への関心が広がっている。書かれていることは、高浜虚子論の一環でしかもかなり重要な役割である。その収録されている散文集の「あとがき」は以下のようである。
俳句は一句一句が独立したものであって、その作者名や作句のさいの状況や、作家 の人物像などは全く無用だ、とよくいわれている。それには私も賛成であって異論は ないのであるが、しかしてその一句一句の集成である句集や、その作者の人柄などを通じて、それを書いた人間そのものに深い興味を覚える。そして、それぞれの人間、私自身を含めて、俳人の人生観・世界観・死生観などを探索し、その生きている姿を さまざまに想望してみたいと願い続けて来た。
文章を書くこと自体、俳句を作ることとは別のおおきな楽しみである。(後略)
(和田悟朗『俳人想望―あとがき』、下線は堀本)
この第二随想集をいただいている。短い書評を書いた記憶があるのだが、その原稿がどうしても見当たらない。多分おなじところに線を引いているだろう。この下線部分、要約して「作品とともに人間を見る視線」に私は惹かれたのだと思う。また、作句と文章。韻文と散文の両立、という主張が、とかく二者択一的にいわれ、圧倒的に実作優先の主張の中で、私の関心を惹きつけた。
私は、戦中派の俳人が戦後をいかに切り開いたか、ということに関心をもちながら、しかも俳句を始めたばかりだったから、坪内稔典や江里昭彦や小西昭夫、やがて攝津幸彦という、若手の当時まだ新人と言われていたような人たちとやっと接触し始めていた。
俳人その人たちをしらず、俳句のことにはほとんど無知であった。
戦前から戦後の新興俳句の作家の句集を読んで理解しようとするときに、(たとえば、山口誓子、西東三鬼、鈴木六林男など)その作品世界ははっきり言ってなかなかはらに落ちることはむずかしく、関西の実際の俳壇勢力の中心になっていたその人間性とか人格や個人の来歴の年譜をたどり、現在想あることの必然性を理解するのが重要な基礎作業となった。
しかし、この人文主義、(ヒューマニズム)の姿勢は、一句の背後に広がる言葉に現れなかった世界に踏み込むことなのである。俳句は、言うまでもなく作品を味う世界なのだから、その実在性を断ち切ってあくまで言葉の領域に入らねば表現世界を読むことにはならない。それは当然のことだったが、ともかく、そいうい切り替えが強調されるということは、今までの俳句批評の視点に、やはり反省が必要だということである。作者の人間的側面や句に関わる人為的なことを入れない(入れてはならない)という新しい視点の批評軸が模索されていて、私も、懐疑に苛まれた。
俳句の詩型の構造の探求と歴史性の抑え、表現論の二つの方向に批評の課題が出てきていたのだが、この次元の違いが人文主義批判である。今改めて和田悟朗の若い日の評文に触れた時に。案外私の初心に近い疑問を、悟朗もまた抱いていたことに気がついた。
しかし、和田悟朗は、思考の内側における両者の区別とともに、知情意全体の表出としてのヒューマニズム的な立脚点によるその俳句の方法とすることを考えていたのかも知れない。つまり全人的な表現ということである。
内部意識とともに世界全体を言葉として取り込む、そのどちらにも偏らず、どちらも知りたいというのが私の大それた願望であった。和田悟朗に惹かれるとしたら、その領域の融合を、作家は淡々と(とみえるほどに)探っていたのである。。
上掲の昭和六十年の「俳句研究」に和田悟朗が書いている、「俳句は一句一句が独立したものであって、その作者名や作句のさいの状況や、作家の人物像などは全く無用だ、とよくいわれている。」(前掲文)、とはそういうことであり、「しかしてその一句一句の集成である句集や、その作者の人柄などを通じて、それを書いた人間そのものに深い興味を覚える。」下線部分 は堀本)、今でも共鳴する。
時代の環境、個人的な感傷、あるいは人生観やイデオロギーなどの固定観念にふりまわされない、俳句表現史的視点、ということ。俳句作品のテキストのみからその「句」の表現をさぐる、こと。私にも常にその問題が頭を占めていた。
作品の背後にある人間の実存的な意味性を理解しなければその作品を読んだことにはならないのではないだろうか?ということは、自分の信念である。なぜならば、その俳句を書く動機が極めて人間的なところから出ているのであれば、そこを読み取らねば読んだことにはならない。
ともすれば、現世の関係性に固定化し膠着することが俳句を痩せさせる、という見解をしばしば聞いた。それは一面正しい。このいわゆる人文主義(ヒューマニズム)には、言語に徹しきれないという負の側面がある。作家たちはどのようにに乗り越えていったのだろうか。特に和田悟朗のことを考えるときに、そのことが頭を離れない。
C. 『諸葛菜』の中の《水底の情感ー死に狎れて》にある悟朗の初心
ところで、人間を、いわゆる人格や性格からではなく、物質の元素まで還元して考える視線は、俳句の外でつまり化学や生物学の世界にすでに出てきていると、これは誰にも想像できる。とくに、和田悟朗にあっては、それを俳句形式につなぐ理解のきっかけとはどのようなものであったのだろう。
和田悟朗は、もともと科学者であるから自分の認識や知識の中で既に「人間」を物質として解体している、その俳句にも、どうしてもその学者の思考法、つまり、存在世界を抽象化して記号に転じる思考の習性ができている。
しかし、科学研究を職業とする生活者としての時間空間の有り様と、俳句作家としての自立する時間空間の過程は、年齢的にも同時に進行している。生活の中のさまざまなアクシデント、これが多分大きな問題だったのである
和田悟朗を最初に俳句へ誘導したのは、化学の師である莵原逸朗教授と回覧誌を始め、次の俳句を見せられたからである(と書いている)。以下の引用はエッセイ《水底の情感ー死に狎れし》『諸葛菜』中/昭和58年1月30日/現代俳句協会現代俳句の100冊[13] )より。
春めくやもの言ふ蛋白質に過ぎず 逸朗
雪ちるやサインはコサインよりかなし 逸朗
莵原逸朗のこの最初の句には「非情のものを有情で切る心地よさ冷酷さ」、次の句には「非情のものに有情を感じる温かさがあり、その小気味よさが、ぼくがそれまでに思い込んでいた俳句の可能性を著しく拡大してくれた。」(引用文は『諸葛菜』の上掲エッセイより)。
続いてそのくだりを読むと、それだけではない。同じころ流産した妻の看病のそばで、「山口誓子をむさぼり読んでいた」とある。その山口誓子の俳句からも、非情のその根底に、やはり人間を深く感じ取ることができ、それまでなんとなく知っていた、いわゆる単なる俳諧とは異質な世界であると思った。」(引用文は『諸葛菜』の上掲エッセイ)。
三十代といえば、化学研究者としても、意欲満々の時で男盛りである。
そのころの俳歴について言えば、
昭和二十七年莵原逸朗と出会う。
昭和三十年。赤尾兜子の「坂」の同人参加。
昭和三十一年橋閒石の「白燕」に参加。
昭和三十三年に高柳重信「俳句評論」に同人参加。
昭和三十五年「渦」創刊。同人参加。これは、「坂」と船川渉の「山系」が合体した。
第一句集『七十万年』は、昭和四十三年・八月十五日・俳句評論社から刊行された.
昭和四十四年現代俳句協会賞受賞。・・とある。
文字どおり「前衛俳句」の坩堝に巻き込まれた経歴であり、『七十万年』にもその時代性は反映しているものの、和田悟朗の俳人の出立は、そういう時代の先端をゆこうとする、高柳重信や赤尾兜子、関西にもかなりの人材を出した金子兜太の方向とは一歩離れ他独自なたたずまいを見せている。それでいながら、正しく彼らにとってなくてなならぬ存在となってゆく。
所属としては橋閒石と赤尾兜子そして高柳重信という三人の当時としては「異端」とされるな天才たち、(戦後の新興俳句の動きの中でも、最も活発なグループであった)、との濃密な交流が始まるのであるが、じつは、俳句にハマるきっかけに山口誓子の存在があった。そういう俳句の体験があったとは、私にすこし意外な感を抱かせたのだが、ともかく感動的な事態だ。(このことは、別文で考えてみたい。)
さらに、後年、悟朗の師の橋閒石がこういうを作っている。
人ももの言う蛋白質に過ぎずと云える春の人 橋閒石『微光』
(平成四年八月。沖積舎)。
奇妙だがよく理解できる字余りである。なお、橋閒石はこの三ヶ月後の十一月二十六日八十九歳で逝去。
おもえば、悟朗存命中に企画され進行していた『和田悟朗全句集』(飯塚書店)は、ついに間に合わす、二月二十四日に他界された(九十二歳)のであった。
晩年にこの「もの言う蛋白質に過ぎず」の語が俳句として繰り返されるという、この成り行きにおもしろさを感じた。和田悟朗の最初の師。私淑した莵原逸朗のことを言っているのは明らかである。閒石悟朗のあいだに、そういう話でも出たのであろう、この循環は取るに足らない思いつきなのだろうが、しかし私には、人生の最後にゆきついた橋閒石の達観が、俳句人生のはじめの和田悟朗を鼓舞した言葉であったことに大変興味を感じている。
和田悟朗の《水底の情感ー死に狎れて》というエッセイには、作家が体験した身近な「死》が書かれてあり、どれも、個人的な体験である。この文章で彼は集中的に死について考えた。最後に、自分のこの文章について彼はこうも書く。
「身近に起こったいろいろな死との関わりを通して、生存意識の経緯を探ってみたい
と願った」「必然、少々陰気な文章になってしまった。ぼくは本来は幼稚で楽天的な人
間である。」 (『諸葛菜』《あとがき》)
最初にあげた「虚子論」はその三年後に書かれている。上にあげたこのような私的な経験を踏まえた高浜虚子への考察は、私の印象では暖かくかつ冷徹である。なんでも見えているようなところもあるが、やはり独特な科学的というより人間主義的な視点をみる。和田悟朗の俳句への認識と人間性洞察の交錯を、俳句文脈から見てゆきたい。(この章続く)
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