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【ピックアップ】

2015年11月27日金曜日

 【時壇】 登頂回望その九十一~九十三 /  網野月を

九十一(朝日俳壇平成27年11月2日から)
                      
◆微生物埋め育み山眠る (銚子市)下谷海二

長谷川櫂の選である。評には「「山眠る」という季語の新たな展開。今年のノーベル賞を題材にして。」と記されている。中七の「埋め育み」にもあるように「埋蔵している」という意味に座五の季題「山眠る」を拡大解釈しているようだ。むろん冬の季題だが「微生物」にとっては現在の注目されている度合いからすると冬の時代を過ごしてきたのかも知らない。中七と座五の間で軽い切れを生じている。「山眠る」はあくまでも季題なのだ。

◆ぎんなんのことは任され寺男 (横浜市)橋本青草

長谷川櫂の選である。ギンナンはややこしいものだ。第一臭い!拾い集めてからの処理にも手間と工夫が要る。食した時の珍味を思えばこその越さねばならぬ過程である。季節になると寺の近隣の人たちも手伝ったりする。当然、分け前を考えてやらなければならず、その分け前を過不足なく配分することは厄介この上ない。中七で一度切れを生じている。むろん「任され」たのは寺男であろう。が、作者、寺男、主語の関係性に不思議さが残る。

◆木の実降り音に迷ひのなかりけり (浜田市)田中由紀子

大串章の選である。評には「第一句。木の実の降る心地よい音。「迷ひのなかりけり」と一気に言い下したところが爽やか。」と記されている。評のように木の実の降る音を心地よいと感じる感性の豊かさが羨ましい。まして音の中に迷いの無いことまで聞き取っている。座五の「なかりけり」の叙法には賛否があるかも知れない。

◆振り返るときの紅葉の濃かりけり (北海道鹿追町)高橋とも子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。山路を行く紅葉狩りであろう。途中で振り返った時に気付いた美しい情景。発見の感動。」と記されている。登山やトレッキング中の景であろう。五合目くらいまでは木々の間を辿る山道であるから景が開けることはあまりない。山頂に近づいたり谷間に差し掛かると突然に眺望が展開することがある。足場を気にして下を向いたきり歩きとおすと見逃すことがある。後で、山頂での仲間との語らいの中に出た話題まで気が付かないことがある。座五の「濃かりけり」の叙法には古風な落ち着きがある。


その九十二(朝日俳壇平成27年11月8日から)


                         
◆難民はひたすら歩く月明り (西海市)前田一草

大串章の選である。評には「第三句。旧満州で敗戦を迎えた私達は、匪賊に襲われ隣町まで歩いて逃げた。その時母は産後一カ月だった。」と記されている。評は難民の非常なること、と非情なることを言っている。と同時にこの句が今現在の時事のみの事柄を扱っていないことも言っている。月という天体は非常にも非情にも対応する。「月明り」は万物を照らしている。中七の「・・歩く」の終止形の切れがいささか弱いかも知れない。

◆冷まじや老いさらばへて妻看取る (横須賀市)菅沼ひろし

稲畑汀子の選である。評には「一句目。老老介護という悲しい現実に住む人々。夫婦の片方が認知症になった作者の心を「冷まじ」という季題が語っている。」と記されている。認知症に限らず、病気や怪我もあり得る。夫婦だけでなく親子もある。老々のみならず病病もある。弱者が弱者を看取るのだ。将に「冷まじ」い。筆者も父を看ていて、病病介護の状態にある。今はまだ父の笑顔にふっと暖かみを感じたりできている。

◆あさがたにあきを見あげて目がさめる (東京都)福元泉

金子兜太の選である。評には「小二福元さんの中七が特に子供らしい。」と記されている。評には「子供らしい」とあるが、秋を見あげるのは、俳人としての素質のように思う。秋を目覚めの時に感じることも。

◆火の中で笑うたやうな秋刀魚かな (横浜市)西ケ谷将雄

長谷川櫂の選である。生あるものが生あるものを食して生きているのだ。食されるものも笑って食されたいであろう。(感情の問題ではなくてである)その為には食すものに心が要る。アイヌやネイティヴアメリカンのアニミズムに似た心の持ち様であろうか。


その九十三(朝日俳壇平成27年11月16日から)
                    
◆冬仕度捨つることより始まりぬ (枚方市)柳楽明子

稲畑汀子の選である。「冬」の意味が深い。むろん掲句の場合は、一年のうちの冬季を意味しているのだろうが、人生の冬期をかすかに匂わせているようにも読むことが出来る。座五の「・・ぬ」の完了がより深みを演出している。

◆限りなく伸びる夜霧の耳なるよ (さぬき市)野﨑憲子

金子兜太の選である。評には「野﨑氏。夜霧立ちこめ、音響だけが限りなく伝わる。その懐かしさ。」と記されている。ヴィクトール・E・フランクル著の『夜と霧』を惹起させる。視覚的確認を人は欲しがる。聴覚的情報の方が質量ともに豊富でより正確なのであるが。多角的認知に拠る安全性を望むのであろうか。評に言う「懐かしさ」よりも、耳は安堵感を希求して「限りなく伸びる」のであろうと考える。

◆机より落ちても廻る木の実独楽 (岩倉市)村瀬みさを

長谷川櫂の選である。評には「二席。落下してもバランスをとって廻りつづける独楽。元気な子どものように。」と記されている。団栗などに短い竹串を挿して独楽遊びをしたりする。たぶんあれであろう。俳句では無暗矢鱈な「も」を敬遠するが、この場合の「も」は効果大である。逆に「も」が無ければ成り立たない。子供は元気であり、同じく元気な玩具を好むものである。

◆五郎丸のための空あり秋高し (千葉市)笹沼郁夫

長谷川櫂と大串章の共選である。大串章の評に「第三句。五郎丸のあのキックのために秋空はある。」と記されている。ラグビーボールの軌道と背景の青い秋空は似合いすぎる程似合う。「のための空」なのである。

◆コスモスの白は無口に生まれけり (熊本市)坂崎善門

大串章の選である。作者の感性であり、断定である。白いコスモスが無口と言われなければならないほど、他のコスモスが雄弁ではないだろう。他色のコスモスと比しているのか?それとも白い他花と比しているのか?

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