本日も東日本のご利用まことにありがとうございました
(伊舎堂仁「日本人語」『短歌研究』2015年9月号)
(屋上の)(鍵)(ください)の手話は(鍵)のとき一瞬怖い顔になる
(伊舎堂仁『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)
(伊舎堂仁「日本人語」は)今の日常に溢れてるいろいろな定型の言葉を本歌取りしているような文体で、普通の短歌の尺度で見ると秀歌と言えるものはないのかもしれないけど、その尺度自体の側にある問題を提示している。秀歌には描かれない領域があって、そこから社会が崩れてゆくんじゃないか。…「本日も東日本のご利用まことありがとうございました」。「本日もJR東日本のご利用」と、JRが入れば何にもおかしくないんだけれども、それをとっただけで批評的に立ち上がってくる。そうか、国民はみんなユーザーなんだみたいな見方が出てきます。
(穂村弘「短歌研究新人賞選考座談会」『短歌研究』2015年9月号)
日本語ではなくて「日本人語」というところもすごく批評的で、言葉がおかしいということだけではなくて、その言葉が出てくる場面のそれぞれのとんでもなさや、思いがけなさというのをうまく取り出しています。
(米川千嘉子「短歌研究新人賞選考座談会」『短歌研究』2015年9月号)
第五十八回短歌研究新人賞候補作に伊舎堂仁さんの「日本人語」がありました(『短歌研究』2015年9月号収載)。
連作タイトルの「日本人語」というのがまずとてもユニークなんですが、「日本語」ではなく、造語としての「日本人語」となることによって、「日本人」が規定する「語」、「語」が規定している「日本人」というように、「日本人」も「語」もどちらも相対化されているのがこのタイトルの特徴だとおもうんですよ。
ことばがことばを補完しあえず、相対化しつつも、よれながら一体化していくぶきみなことばのありようです。
そして、こうした〈ことば〉に対する相対化のありよう、ことばに対するなまなましいメタの視点というのが伊舎堂さんの短歌にはみられるのではないかとおもうんですね。ことばからことばへのことばにたいすることばをまさぐるそのことばのありかたといってもいいとおもいます。たとえばこんな歌のように。
どこの海にもつながっていない海にもつながっている海がある
どの これが長い途方もなく長い夢だとしたらどの一行を
(伊舎堂仁『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』前掲)
最初に掲げた手話の歌も、「(鍵)のとき一瞬怖い顔になる」という手話としての「(鍵)」ということばに対してその意味でなく、それをめぐる形式に「一瞬怖い顔になる」とことばで言及することによって、〈手話〉という言語形式そのものを浮かび上がらせる仕組みになっています。ことばをことばでほころばせることによってそこに〈手話〉そのものを成り立たせている「怖い顔」も含めた表現様式を浮き彫りにしているのです。ことばが意味性をストレートに発揮せず、〈怖い〉を通してよれていくそのしゅんかんを描く。でもことばで。
静岡県富士吉田市の民宿のおじさんがくれた名刺を捨てる
(伊舎堂仁『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』前掲)
たとえばこの歌もですね、結語の「捨てる」という行為=ことばによって、名刺ということばによって成り立っている様式に摩擦が起き、名刺そのものの形式を問うかたちになっているとおもうんですね。名刺はただたんに笑顔で受け取り大切にアドレスとして保管していれば〈透明な言葉〉だけれども、「静岡県富士吉田市の民宿のおじさん」という名刺から得られた情報=ことばが「捨てる」という行為によって違った言語の位相に転置されてしまう。ちょっとふだんのことばづかいとはちがったぶきみな様相にことばがひっぱりされてしまう。そういうシーンをことばからことばによって伊舎堂さんの短歌はたびたび描いているんではないかとおもうんですよ。やはりことばで。
で、言うなればそれが伊舎堂さんの「日本人語」だとおもうんですよ。「日本人」でもない、「日本語」でもない、「日本」でもない、「語」でもない、「日本人語」というすわりのわるい、スタンスのとりにくい、アンバランスな位置から、それでも「語」と付着しているように言語体系として、ある一定のシステムをもった言語態(ラング)=「ことば」としてしゃべりつづけること。つまり、そのつどその場で文法が生成されていくような、しゃべりつづけることが〈しゃべり〉をうみだしていくオールナイトニッポンのラジオみたいに。
そういうことをきわめてユニークなかたちで、ぶきみな強度をもって実践しつづけているのが伊舎堂さんの短歌なのかなあとおもうんです。だから言葉をふだん表現として使っているひとが伊舎堂さんの歌集を読むと〈こわい〉と思う部分があるとおもうんですね。言語的にこわい、と。それは穂村さんがおっしゃっていた選評ともつながるけれど、わたしたちの言語的尺度が問い直されているからだともおもうんですよ。
わたしたちの言語体系のなかにない言語文法を伊舎堂さんはことばをとおして挿入してくる。わずかなぶれのすきまから。たとえば伊舎堂さんの歌集の「あとがき」にこんな箇所があるんです。
知らない町で入るトイレがウォシュレットで、表紙をめくればいろんな人が勝手にいろんな海で水着になってくれている。一方で ずいぶん会ってない人ともう会えない人がたくさんいて、そのときに話した事を思いだしては涙ぐんだり、小さなジャンプをしたりする。完全だけどもなんにも無い、そういうもの は享受しつつ、でもそういうの じゃない。自分でもさわれない自分のどこかでなにかがこんなに点滅していて、それがどんどんはやくなっていることだけは分かる。で、この、これ、はだいじょうぶなやつなのか。…あなたとあなたとあなたに会いたい。
(伊舎堂仁「あとがき」『トントングラム』前掲)
この引用した「あとがき」には非常に独特な〈誤植〉じゃないかとも思えるような箇所があって(最初わたしは誤植だと思ったんですよ)、実はこの文章には〈半角アキ〉の部分が三箇所あるんですよね。一箇所だけなら、〈誤植〉だとも思うんですが、三箇所あるということは、その半角が言語の体系(システム)になっているということです。伊舎堂言語体系=日本人語のなかでは〈半角アキ〉も〈文法化〉されている。
「一方で ずいぶん会ってない人」「そういうもの は享受しつつ、でもそういうの じゃない」というふうに半角アキによって摩擦やけつまずきが読み手に起こる。休止が入ることによって、「んん」っとシステム障害が起こる。これ誤植じゃないのか、と思うが、きちんとシステム化されているようなので、じゃあ自分のシステムを見直さないといけないなと、逆照射されてしまう。
つまり、そうした誤植か誤植でないかのすれすれのところに伊舎堂仁の短歌の語り手はいて、その場所から〈日本人語〉を終わりのないラジオのように「あなたとあなたとあなたに」向かってしゃべりつづけている。連作「日本人語」の〈始まり〉の歌と〈終わり〉の歌がこんなふうにパッケージングとして〈ずれ〉て〈よれ〉ていたようにです。
12時の鐘が12時20秒ごろ鳴り終えてお昼休みだ
(伊舎堂仁「日本人語」の最初の歌)
12時の鐘が12時5秒ごろふいに止まってお昼休みは
(伊舎堂仁「日本人語」の最後の歌)
そして、それこそが、このシステムの〈よれ〉こそが、穂村弘さんが語っていた〈尺度そのものを語る〉ということなんじゃないかとおもうんですよ。
尺度そのものを語るためには〈誰にも会えない場所〉で、しかし〈誰にも会えない誰か〉として、〈よれ〉つづけていなければならない。でも、伊舎堂仁には、なぜかそれができてしまう。
なんでだろう。
いしゃどうに会わせたい人がいないんだ ぜひ会わないでみてくれないか
(伊舎堂仁『トントングラム』前掲)
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