ウルトラセブンの闇の高島平かな 関悦史
(『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011年)
抽象絵画ならぬ抽象俳句。
鴇田智哉の口から「抽象」という語が出たとき、「二階のことば」という言い方を思い出した。
( 西原天気「抽象の景色 鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ」) 『週刊俳句』2014/12/21 )
ときどきハヤタはふしぎな気持になるのだった。ウルトラマンに変身するしゅんかんには気をうしなってしまうので、自分がどのようにしてウルトラマンに変身していくのか、かいもくわからないのだった。
(金城哲夫『怪獣絵物語ウルトラマン』ノーベル書房、1967年(引用元は、切通理作『怪獣使いと少年』))
創作行為もしくは表現行為は絶えざるオリジナリティの消去であって、逆に、更新されたオリジナリティの創造、と言っていいだろう。……結局のところ、オリジナリティの共有からではなくて不在からこそ新しい創作行為が発現してくるものかもしれない。
(古田島伸知「不在の豹 リルケの詩とボルヘスの詩」『ワセダ・ブレッター』2005年12月)
先週の『俳句新空間』に掲載されていた「「凧と円柱」による認識論1」(》読む)という記事のなかで竹岡一郎さんが鴇田智哉さんの俳句には「自らの視覚による認識への懐疑」があると指摘されていました。ここからちょっと今回は始めてみたいと思うのです。
去年、新宿紀伊國屋のSSTのイヴェントで、榮猿丸さん、関悦史さん、鴇田智哉さんのクロストークを拝聴していたときに関さんが(わたしの記憶がたしかならば)「鴇田さんの俳句は、一回抽象をとおしたあとで具体物におりてくる」と話されていて、それがとても腑に落ちたというか印象的だったんですね。
つまり、わたしの言葉でいいかえるならば、〈ふつうの・すなおな認識〉を鴇田さんの俳句はしていないわけです。竹岡さんが指摘されたようなみずからの〈懐疑〉が認識への〈屈折=屈光〉となって、関さんが指摘されたような〈抽象→具体〉という手続きをうんでいる。で、もしかするとその屈折・手続き・迂回そのものを、プロセスそのものを〈そのまま〉に句にしているのが鴇田さんの俳句なのかなあとも思うんです。
それがとても印象的に出ているのがこの句なんじゃないかと思うんです。
7は今ひらくか波の糸つらなる 鴇田智哉
(『凧と円柱』ふらんす堂、2014年)
で、ですね。もうひとつの去年の鴇田さんの下北沢でのイヴェント(青木亮人さん、鴇田智哉さん、田島健一さん、宮本佳世乃さんの鼎談)で、鴇田さんの俳句は初心者がとつぜんみるとまったくわからないのではないか、或いはぶっとんだ認識をむしろおもしろがるひとがいるのではないかというお話が出ていました。それもとても印象深かったんですが、なぜ初心者がみてまったくわからないのか。それをもし私なりに考えてみるとするならば、そこにはやはり、抽象と具体が同時に存在しているからなんじゃないかとおもうんです。
「7」というのは抽象的な概念です。あくまで数字なのでもともと無いものを数字という概念として使用している。0なんかもそうですよね。「7個」とか「7人」は具体物なんですが「7」はあくまで抽象的な数字なわけです。
ところがこの「7」が「ひらく」わけです。「波」という具体形容をともなって。で、「今~か」とあるので、〈実況的〉に抽象が具体へとひらいていくプロセスそのものが句になっている。プラトンと手をつないだかと思うと、とつぜんプラトンをその手でつきとばすような、抽象→具体の手続きがそのまま句になっている。
鴇田さんの俳句は〈意味〉ではないわけです。これは〈手続き〉だと思うんです。だから関さんがその〈手続き〉を〈手続き〉として説明されたときにわたしは腑に落ちたと思うんです。
短詩型というのは、おそらくなんだけれども、基本的には、〈これどういう意味なんだろう〉から始まると思うんですね。〈これどういう手続きなんだろう〉とは問わない。
でも、問いかけるひともいる。それは、だれか。表現者です。作り手/語り手の側です。作る・語る・詠むことをふだんしているので、〈これどういう手続きなんだろう〉と句に問いかける。
読み手に徹するならば〈これどういう意味なんだろう〉なんだけれども、作り手でもあるのならば〈これどういう手続きなんだろう〉と短詩型につねに問いかけてもいるはずです。だから、下北沢のトークで鴇田さんの句集の受容の好評さ(ある意味では「教祖的」なまでに)が話題になっていましたが、わたしはそういうところが一因としてあるのではないかとも思うんです。〈これどういう手続きなんだろう〉と鴇田さんの〈俳句〉に問いかけたときに答えてくれる。つまり、《その問いかけじたいがこの句そのものなんですよ》、と。
ここで少しウルトラセブン(TBS系 1967年10月1日~1968年9月8日・全49話)の話をします。ウルトラセブンの変身の手続きのありかたは、ウルトラマンの変身の手続きのありかたとちょっと違うんです。ウルトラアイの話ではありません。ウルトラマンがハヤタ隊員に、ウルトラセブンがモロボシ・ダンに、《どう》地球人化するかという話です。
切通理作さんがこんな指摘をされています。
ダンは、ハヤタのようなウルトラマンの容れ物ではない。地球人のふりをしているウルトラセブン自身なのだ。しかし、そのことでダンにはハヤタにはなかった内面が生じてしまった。そして『ウルトラセブン』は、二つの世界の間に引き裂かれた一人の人間に、その存在理由を問いかけていくドラマになっていった。
(切通理作「金城哲夫 永遠の境界人」『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』宝島社文庫、2000年、p.81)
ウルトラマンとハヤタ隊員は別物でした。宇宙人と人間という完全に分離した、分業制だった。だからそこには葛藤がなく、難民のバルタン星人も殺戮することができた。でもウルトラセブンはちがう。そこにはセブンとモロボシ・ダンのあいだでつねに連絡路があった。宇宙人でもありかつ地球人でもあること。それがセブンの葛藤であり、〈内面〉だったのです。
本質主義的な〈内面〉があるとは思いません。でも、なにかとなにかのかたちに引き裂かれたときにそこにはつねに〈手続き〉としての、その手続きによる〈葛藤〉としての〈内面〉はあるかもしれないなとも思うんです。鴇田さんの句が抽象と具体の手続きのもと、ウルトラセブンのように同時存在であるような。
だからこんな言い方は間違っているかもしれないけれど、もしかしたら鴇田さんの句は〈俳句的内面〉を描いているんじゃないかとも、思うんです。〈俳句的内面〉とは、〈俳句の手続き〉であり、〈俳句の連絡路〉のようなものです。俳句が俳句化するその〈変身〉の瞬間そのものです。
もちろん〈俳句的内面〉というのは、かつて西原天気さんが鴇田さんの句を評して「抽象の景色」、いわば〈零度の地平〉と言われたように、どこにもないものです(西原天気「抽象の景色 鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ」前掲)。メトロン星人がかつてモロボシ・ダンに述べたように、この世界には〈手続き〉や〈連絡路〉があるだけであり、対象化すべき敵や内面はどこにもないのです。
どこにもないのだけれども、でもそこに〈俳句〉があらわれてしまったということ。対象化すべきものを持たない、手続きとしての句が現れたこと。そこに考えるべき〈俳句的事件〉があるように思うのです。
モロボシ・ダン、いやウルトラセブン。我々にとって君を倒すことは問題でない。
(ウルトラセブン第8話「狙われた街」(1967/11/19)よりメトロン星人の発言)
空家(まほろば)にゐるのでせうか端座して 小津夜景
(『出アバラヤ記』)
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