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2015年9月4日金曜日

【俳句時評】  1972年の松尾あつゆきの覚悟 / 堀下翔



先月執筆分の時評「松尾あつゆき『原爆句抄』に関して」にふたたび触れなければならない。8月7日の掲載後、「層雲」同人の藤田踏青氏から数点のご指摘をいただいた。

(1)「原子ばくだんの跡」の掲載された「層雲」冬季号は1945年ではなく1946年である。 
(2)松尾には他に『ケロイド』(伊藤完吾、富岡草児編/層雲社/1991)と和英対訳『原爆句抄――A-BOMB HAIKU』(緑川真澄英訳/新樹社/1995)という著書が存在する。

指摘を受けあわてて再調査すると果たしてその通りであった。

(1)「原子ばくだんの跡」の掲載は1945年ではなく1946年である。『原爆句抄』〈あとがき〉の記述を辿るかぎり「原子ばくだんの跡」の掲載を松尾自身は1945年だと記憶しているのだが、とまれ、筆者の確認不足であった。つつしんでお詫びし、訂正させていただく。

(2)の二冊の句集の存在は筆者をひどく驚かせた。そのような本は孫の平田周が復刻した『原爆句抄』には一言も書かれていないのである。それどころか平田による〈復刊によせて〉という文章にはじつはこのような記述がある。〈だが残念ながらそれから(堀下註――1975年版から)四十年経った現在は絶版となり、読んでみたいという声になかなか応えることができない状態が続いている〉。しかし実際には、松尾の句は今回の復刊以外でも複数回、活字になっていたのである。前回の拙稿でも、管見のうちで気が付いた『花びらのような命 自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験』(竹村あつお編/龍鳳書房/2008)と『松尾あつゆき日記 原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』(平田周編/長崎新聞社/2012)とを年表に示してみたが、他にこの二冊が存在していた。この点にも筆者の調査不足があった。重ねてお詫び申し上げる。

今回、上記のうちの一冊である『ケロイド』を通読し、この本が、やはり原爆の句集としては『原爆句抄』と共通していながら、実は微妙に異なる性格を持っているということに気が付いた。そこで今月は前回の補足の形で、『ケロイド』を読みすすめ、そのことによっていまいちど『原爆句抄』という句集がわれわれに何を見せていたのか考えていきたい。

『ケロイド』は松尾の全句業を概観する句集である。『原爆句抄』は1945年の長崎原爆以降の句のみを収録したものであったが、松尾自身は戦前からすでに「層雲」で活躍していた作家である。『ケロイド』はそれらの遺漏句および『原爆句抄』以降の晩年の句を収録する。具体的な内訳としては、『原爆句抄』全句のほか、初期の第一句集『浮燈台』(1938年)から90句、戦中の「層雲」発表句から40句、晩年の「層雲」発表句から70句――ということになる。早速句を読んでいこう。

風がすずしい子をつれて電車に灯がついたよ 松尾あつゆき(『浮燈台』)

切れが曖昧で一句の中で言葉どうしが複雑に掛り合っている。まず〈風がすずしい〉を読者は読むのだが、口語の〈涼しい〉は連体形と終止形の判別が不可能なので、これは〈子〉に掛かっているようにも読める。

〈子をつれて電車に灯がついたよ〉というのもなかなかむつかしい。接続助詞〈て〉がやっかいだ。〈子をつれ〉ているのはもちろん親なのだが、それが〈電車に灯がつ〉く、ということがらと〈て〉で結ばれる。高校時代の古典の授業で接続助詞〈て〉の前後で主語は変わらない、と習った方がいるだろう。じっさいには例外も多く、まして散文とは違って論理の飛躍を多く伴う韻文の世界のことだから、それを杓子定規に当てはめるわけにはいかないのだが、それでも筆者はこの〈子をつれて電車に灯がついたよ〉に、主体が混乱しているような、なんらかの違和を感じるのである。読者のみなさんはどうだろうか。

かつ、〈て〉によって前後が深く結びついてはいるが、決してそこにあからさまな論理が見えているのではない。〈て〉で結び付けられているにも関わらず、二つのことがらは、まったく同質である。だからこそ、そこにいいようのない不思議な感じがある。ここで重要なのは、これが〈子をつれて電車は灯をつけたよ〉ではない、という点である。自動詞を他動詞に変形させたところで、日本語学上の意味は変化しない。しかし、この無生物主語構文では、〈子をつれて電車に灯がついたよ〉とまったくニュアンスが違う。〈電車が灯をつけたよ〉は、そこに意思がある。互いが無関係であったからこそ詩として成立していた前半と後半とが、擬人化された電車のあたたかな愛情、という解釈によって因果で読まれてしまう。

〈子をつれて電車に灯がついたよ〉という表現は、絶妙なバランスで成立しているのである。そして先述の通り、この〈子〉には、〈風がすずしい〉が掛かっているのか否かの問題もある。多少文法的に無理があるのも数えてみるが、たとえば読者は、〈風がすずしい子〉ときたときに、〈風がすずしい〉を読んだあと、いったん〈風〉を忘れ、〈すずしい子〉という単語のまとまりを目にすることになる。あるいは、〈風がすずしい子〉というまとまりでもいい。この場合は、〈子〉に、関係詞のかたちで、〈風がすずしい〉が掛かっている。意味が取りにくいが、風のすずしさを感じている子、すずしい風を受けている子、ぐらいの意味合いだ。そのあと、〈子をつれて電車に灯がついたよ〉が来る。ああこれは電車の中だったのかと気が付き、はじめの〈風〉が電車に吹き抜けている風だったことに思いをはせる。夕涼の感じがある。むろん、基本的には〈風がすずしい〉で切れているのだが、以上のように、この句はその構造を超えて、言葉どうしがゆるやかに、そして次々にむすびつき合っている。言葉のたのしさがこの句にはある。

つばめ、つばめがあらしになった 松尾あつゆき(『浮燈台』)

こちらは、意味の上で二つのものが接続する。二度呼ばれる〈つばめ〉は同じ一匹の燕と思う。嵐の中を飛んでゆく燕を主体ははらはらしながら見ている。そのうちに燕は、薄暗い空の雨の中に消えて行ってしまう。松尾が頻繁にもちいる平仮名表記がこの句でも効果的に出てきている。感情的に露出することのない、のっぺりとした主体の印象が、この平仮名表記に現れている。

それきりラヂオもだまってしまひ夜となる雪 松尾あつゆき(『浮燈台』)

この句には「二二六事件」という前書が付いている。松尾は長崎原爆だけではなくこういった時事も句に書き残している。それがやや意外な気がするのは、松尾と『原爆句抄』という句集とがあまりに強く結びついているからか。松尾が決して“長崎原爆のために俳句を書いていた作家”ではないということをうっかりすると忘れてしまいそうになるのはひじょうに危険だ。いっぱんに手記というものが、ある事件を「契機」として書き始められているのとは違い、松尾は長崎原爆よりもずっとまえから俳句という方法を手にしていたのである。掲句、ラジオがそれきり黙る、というのはいささか陳腐ではあるが、〈夜となる雪〉のずらし方にはなるほどやはり松尾の句だなと思わされる。

出征のこゑ、機械のよこから旗もってでる 松尾あつゆき(「層雲」戦中発表句) 
はじめて握る手の、放てば戦地へいってしもう 同

これは、『浮燈台』以後の句。戦争に突入し素材もそれに従っていく。それでも文体は一貫している点に、この作家の強さを感じる。二句目は「の」の意味があいまいなのが面白い。

海をえがくこども大きな紙もってきた 松尾あつゆき(「層雲」晩年発表句) 
そっとつまんで子の墓から付いてきた蟻です 同

こちらは、晩年の句。『原爆句抄』に引き続き、メッセージ性の強い句のなかにこれらのようなあたたかな目で対象を語る句が挟み込まれる。

『ケロイド』巻末年譜によると松尾は、1976年の井泉水逝去ののちは「層雲」の選者も務めていたようである。俳句作家としては重要な事項のような気がするがこの点もまた本年復刊の『原爆句抄』では書き落とされている。平田に俳句の勝手が分からなかったといえばそれまでだがこの『ケロイド』を読むにつけ松尾が原爆の俳句の書き手としか記憶されないことに勿体なさを感じないでもない。

だがしかし、この事態を運命づけたのが他ならぬ松尾自身であったこともまた事実である。第一句集『浮燈台』の刊行は1938年。そして第二句集に当る『原爆句抄』の第一句は1945年8月9日の句だ。第二次世界大戦(1939-1945)の期間の句がまるまる捨てられているのである。そこにはすでに引いたとおり〈はじめて握る手の、放てば戦地へいってしもう〉等、銃後の精神史がふんだんに記録されていた。長崎への原爆投下が第二次世界大戦の終結と直接的にかかわっている以上、これらの句を残すことで、『原爆句抄』の持つ文脈がはっきりとすることだってあり得た話だ。がしかし松尾はその句を捨てた。『原爆句抄』の構成は、長崎原爆を唐突に始まる惨劇として提示しているのである。戦中の句があるのとないのとでは風景が違ってしまっている。

1972年の松尾が自身の句集を『原爆句抄』と名付けた瞬間、彼の俳句は原爆の俳句として読まれることになってゆく。逆に言えばそれは、そのような読まれ方を引き受けようとする彼自身の覚悟であったろう。

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