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2015年8月21日金曜日

【短詩時評第一話】 川柳を〈読む〉こと、〈読む〉ことを〈読む〉こと、〈読まない〉で〈読む〉こと-高野文子・小林秀雄・安福望- /柳本々々



川柳の読み方がよく分からないという声を、特に他ジャンルの方から耳にする。俳句なら多くの場合「季語」があるので季語を手掛かりに読んでいくことが可能だが、川柳はどこから読んでゆけばいいのか分からない。取りつく島がないのだ。 

  (小池正博「現代川柳を楽しむ」『川柳カード』9号・2015年7月)

ジャック 家出をしたあなたがマルセイユの街を泣きそうになりながら歩いていたときわたしがそのすぐ後を歩いていたのを知っていましたか? メーゾン・ラフィットの小径では菩提樹の陰から祈るような思いでおふたりのやりとりを聞いていました スイスで再会したときはわたしは何と声をかけて良いのやらわからなかった だってあなたは百ページも行方知れずでやっと姿を現わしたと思ったらわたしより三歳も年上になっていたんですもの いつもいっしょでした たいがいは夜 読んでいないときでさえ だけどまもなくお別れしなくてはなりません
  (高野文子『黄色い本』講談社、2002年、p69-71)

川柳を〈読む〉ということは、どういうことか。

こう考えたときに、すぐに矛盾につきあたらざるをえないのが川柳を〈読む〉ということではないかと思うんですね。そもそも17音で言語表出されたものを、〈なぜ〉〈なんのために〉(17音以上の)多くの言葉を費やして解釈する必要があるのか。それはかえって17音に圧縮された言葉を〈殺す〉ことになるのではないか。

川柳を〈読む〉ということはつねにそういうジレンマを抱えていると思うんです。

高野文子さんに『黄色い本』という漫画があります。このなかに収められた「黄色い本」という中篇は最初から最後まで全篇通して「田家実地子」という女の子がロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を読んでいる。その〈読む過程〉〈読書行為〉そのものを漫画化しているのがこの高野文子さんの「黄色い本」という中篇です。〈読む〉ことをめぐる漫画だということもできます。

さきほど川柳を〈読む〉ことのジレンマ、短いことばを長いことばに置換してしまうことの矛盾の話をしましたが、その〈読む〉というのはつまり〈解釈〉のことです。短いことばを長いことばに置換して・かみくだくこと。それが〈解釈〉です。

なぜ〈短詩〉と呼ばれる短い〈川柳〉をわざわざ長いことばでかみ砕き・解釈する必要があるのか。

川柳を〈読む〉ことはそういう葛藤とつねに向き合わざるをえないのですが、「黄色い本」の田家実地子にとっては〈読む〉ということは〈解釈〉することではなく、その物語をみずからの生活とシンクロさせつつ、ときにどこまで読んだか忘れる「ひでえ読書」もしつつ、それでも「読んでいないときでさえ」「いつもいっしょ」にいるというそういう〈読む〉ことでした。

つまり彼女にとっては〈読む〉ことは〈解釈〉することではなく、〈ともに生きる〉こと、たえず生活のなかでイメージのいきいきした亡霊として〈視覚化〉することだったのです(この漫画では『チボー家』に印刷された〈活字=印刷文字〉も漫画という大胆な構図=パースペクティヴのなかで視覚化され、いきいきとしています。それは〈読まれる〉ための文字ではなく、〈見られる〉ための文字です)。

考えてみたいのはこういうことです。〈読む〉という行為はつねに〈ことば〉が特権化されがちではあるけれど、〈読む〉というのは〈ことば〉で解釈するだけでもない。たとえばみずからことばに降りることなく、解釈もせず、イメージの領域にとどまるのも、また〈読む〉ことなのではないか、と。

またはこういう問題提起の仕方にしてみてもいいとおもいます。

なぜひとは何かを〈読ん〉だら、それについて何かを〈語り〉たがるのか。

なぜ、私は読んだらそれについて何かを言わなければならないと思うのか。私は何かを言うために読んでいるのか。なぜ、黙って、反芻するようにただひたすら読もうとしないのか。…書き手が書かなかったことを読み手が書いてはならない。…小林(秀雄)の「禁止」が読者に促す自問は、「読む」ことと「書く」こととの間に暗黙に前提されている信用制度を、いわば恐慌に追い込む。しかし、この信用崩壊、この恐慌、この失語こそ、「読む」ことを、「書く」ことへの従属というそれまでの立場から断ち切る出来事ではないだろうか。それこそ「読む」ことと「書く」こととの間にある不透明な空隙──文学はこの空隙にしか存在しない──を露呈するものではないだろうか。
  
 
(山城むつみ「小林秀雄のクリティカル・ポイント」『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年、p.25-6)

「なぜ、私は読んだらそれについて何かを言わなければならないと思うのか。私は何かを言うために読んでいるのか」という小林秀雄を通した山城むつみさんの〈問いかけ〉は、「黄色い本」のなかで田家実也子が『チボー家の人々』を読みながら(期せずして)発している問いかけと似通っているにもおもうのです。なぜわたしたちはなにかを読んだら、感想を、意見を、〈言葉〉で、述べようとするのか。その無意識の強制や強要としての〈読むことの制度〉そのものを問うことはできないのか。〈読む〉ことそのものを〈読む〉ようなかたちで。

さいきん発売された、短歌の一首一首に絵を添えていく〈歌/絵集〉という形態をとっている安福望さんの『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』(キノブックス、2015年)の「おわりに」のなかで安福さんがこんなふうに書かれています。

夜、なかなか眠れないときに、好きな短歌のことを考えます。目を閉じてくり返し考えているうちに、眠ってしまったり夢をみたりします。
短歌は夢に似ているような気が最近していて、しかもその夢は自分の夢ではなく、全く知らない他人の夢なので、見るものすべてが新鮮です。
  
 
(安福望「おわりに」『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス、2015年、p.188)

この「目を閉じ」「眠ってしまったり夢をみたり」という安福さんの短歌にたいする姿勢は田家実地子と似ているようにも思います。つまりなにかを「言」うために短歌を読むわけではなく、むしろなにかを「言」うことをシャットダウンする方向で「目を閉じ」、「眠」り、「夢をみ」ること。なにかを「言」わないための、解釈をしないための領域に踏みとどまること。言語化できない〈夢〉の領域に。

ある意味で安福さんは〈解釈〉の領域に踏み込まないために絵を描いているといえるのではないかともおもうのです。〈解釈〉をせず「他人の夢」としての「見る」ことの「新鮮」さをたもちつづけるために。

〈読書感想文〉というジャンルがあるように、〈感想をかく〉というときひとは一般的にまず〈ことば〉から入ります。しかし、〈感想をかく=書く〉ではなくて、〈感想をかく=描く〉かたちからもひとは入ることができるはずです。まず、絵にしてみるのだということです。それはどんな絵でもいいし、図形的な抽象画でもいい。とにかく「何かを言わなければならないと思」っているじぶんを相対化すること。それがイメージの領域である〈絵〉の仕事ではないかとも、思うのです(もちろん、絵を描くというのはあくまでひとつの相対例です。それはめいめいで自分の〈読むこと〉を相対化できるなにかを見つければよいわけです。絵はあくまでひとつの例です)。

ウラジーミル・ナボコフは文学講義のなかで文学を絵にして理解することの大切さを訴えていました。カフカ『変身』の甲虫を描いてみること、甲虫とともに家族が暮らしたあの家の間取りを描いてみること。

小説を読む際に細部に細心の注意を払うことは、ナボコフの場合、何よりも図解してヴィジュアルに描き出せるということを意味した。小説の舞台となる土地の地理、住居の間取りから、動植物の形態にいたるまで、ナボコフの『文学講義』は図解にあふれている。カフカの小説を理解するためには、グレゴールがいったいどんな虫になったのか、またザムザ家では家具やドアがどのように配置されていたか、正確に理解する必要があるし、『ユリシーズ』ではダブリンの地図が頭に入っていなければならないし、トルストイの芸術を楽しむためには…『アンナ・カレーニナ』…に出てくるモスクワ─ペテルブルク間を走る十九世紀ロシアの列車の内部がどんなだったか、思い描けなければならない。そして、そのためにはなんと言っても図解が役に立つ、というのである。 
  (沼野充義「解説──動物学の教授には象を呼べ!──大学教師としてのナボコフ」『ナボコフの文学講義 下』河出文庫、2013年、p.425)

もちろん、うまくいくかどうかはわかりません。でもかえってうまくいかない方がいい場合もあるのです。ことばをひとは使い慣れているために、〈解釈〉をするとき、ひとはみずからを、或いは他者を、〈うまく〉〈それとなく〉だましている場合もあるのです、たぶん。

だから、ことばの領域からそれたところで、なれない場所で、〈読む〉ということを実践してみる。或いは小林秀雄=山城むつみが述べたように実践すらしない場所に〈読む〉ことを〈あえて〉置いてみること。そこで〈読む〉ことをかんがえること。〈読まない〉で〈読ん〉でみること。

〈読む〉ということを〈語る〉という言語領域にとらわれないかたちで、もういちど〈読む〉ということを発明すること。たとえば〈絵〉を描くことのような、ことばで〈読む〉ことを相対化するような、じぶんにとっての〈読む〉ことを、田家実地子のように、小林秀雄のように、安福望のように見いだすこと。それが、〈読む〉ことに/〈読まない〉こととして/〈読む〉ために、向き合うということなのではないかともおもうのです。「革命」にはならないかもしれないけれども。「新しい活動的な」読むことのために。

服の下に着る物を作ります これからの新しい活動的な 革命とはやや離れますが気持ちは持ち続けます 
  (高野文子『黄色い本』講談社、2002年、p.72)




もう一つ世界を増やす準備する  竹井紫乙
  (『句集 ひよこ』編集工房円、2005年)

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