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2015年4月3日金曜日
【句集評】 言いおおせて円かなる――水岩瞳句集『薔薇模様』 /関悦史
水岩瞳の第一句集『薔薇模様』を読み進むと、エッセイ集を読んでいるような気分になる。つまり作中に作者そのひととほぼ同一と見てさしつかえないような我がいて、その目が見たもの、感じたことが一人称的に語られているのである。
これは当たり前の ことと思われるかもしれないが、俳句においては必ずしも標準的なありようではない。どちらかといえば初心者的な作り方である。水岩句では、写生的な作でも、自分の言動や思いを提示した作でも、この主体と客体のきっぱりと安定・分離しきった位置関係は変わらないのだ。一般には、作中の我がよほど独創的なものの見方でもしない限り、かえってその単独性を薄めることになりかねない性質である。
あとがきによると、水岩が俳句に素直に夢中となった最初の五年から先について、藤田湘子は「この時期から第二期に入るので、一年間よく考えて学びなさい」と書いているという。それを踏まえた上で曰く、「普通ならば、自分の句風に自分自身が納得できたときに、第一句集を出すのでしょう。で も、私は、私の第一期の終わりに出すことにしました」。
どろどろのマグマの上のかたき冬
レトルトの春の七草確と食ぶ
句集刊行の果断さといい、これらの句の、マグマやレトルト食品の熱い不定形な充溢を控えた「かたき」「確と」との張り具合といい、この作者の主客の区別は今後も変わらないものと思われる。つまり一見、初心者的と見えた特質は、水岩瞳の本質に直結するものである可能性が大きいのだ。
句集の解説は、結社的に無関係で水岩と面識もない池田澄子が書いている。水岩の父は戦争中、ルソン島を敗走して沢山の兵を死なせたことを悔やみ、戦後はフィリピンに学校を建てて一時期そちらに住んでいた。父を戦病死で失った池田が、手紙だけで解説を 引き受けたのはそうした共通点があってのことである。
そのことばかりが「マグマ」の実質を成しているというわけではないのだろうが、報告的な作りの句が、力みとは違う張りを実現しているのは、そのモチベーションと単純明快な主客の構造が、多弁でありながらもすっきりした太い一筆書きの線へと転じているからである。
流灯の二つ寄り添ひ燃えてをり
火だるまの流灯ひとつ急ぎけり
これら流灯の句の火勢の過剰さと定型性との合一は、その好例である。
荒梅雨やみちのく降るな此処に降れ
何故なのか今も問ふべし敗戦忌
署名する「さよなら原発」秋暑し
これら社会性の強い句は、水岩の特徴である等身大性が、述志以 外の詠み方を許さないという限界がある。しかしこれらの句が、作者が真面目であればあるほど陥りがちな他人事感をともかく回避し得ている点は評価すべきだろう。「荒梅雨や」は被災地を想っての震災詠だが、中七の助詞省略による寸足らずさをも正気の強さに変えて押し切ってしまっている。
社会詠では「ブラック企業」と前書きのついた《理不尽なことはメモせよ卒業子》も、その右顧左眄しない直情ぶりと実際性が小気味よい。ただしこれら社会詠は、ほぼ言説内容への同感を誘うだけにとどまっているので、飛躍や詩性をどう繰り入れるかが今後の(おそらく生涯の)課題となるだろう。
句集の基調を成しているのは、こうした「マグマ」を直観させる句ではなく、日常詠である。
吾子と見る絶滅危惧種の目高かな
避暑楽しサラダにバルサミコ酢振り
おむすびや隠岐の石蓴をふりかけて
これらは生活の華やぎを詠っていて、嫌味がない。巧拙とは別に、俳句擦れした嫌味の少なさ(句によっては全くないわけではない)は、句の格に直結する美質である。
麒麟から見れば吾も猿木の芽風
花虻に生まれ潜りぬ花宇宙
動物の句は比較的少ない。この二句は麒麟や花虻の視点を想像しているが、アニミスティックに、内在的に動物たることを経験するという面はあまりなく、擬人化とも少しずれ、別な視点に拠った知覚変化がもたらす機知的展開が作者の興味の中心となっている。つまりここでも等身大という特質は変わっていな いのだ。風景、事物、他者がそれ自体として入りにくい作風である。
日本近代文学における「風景」の成立が「内面」と直結していることを指摘したのは柄谷行人だが、水岩の句には「内面」はない。言い換えれば「発語されなかった言葉」がない(作者本人には無論あるはずだが)。「マグマ」や流灯の炎上もほとんど「言説」として句に登場しているのである。
しかし沈黙の部分がなく、等身大の視点で全てを言い尽くしてしまう性質と、句の円満な充足性との両立は、句集のオビに引かれた一句を見ると、必ずしも不可能ではないようである。
円かなる月の単純愛すかな
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