◆雪の山光の中に迷ひけり (熊谷市)内野修
長谷川櫂と金子兜太との共選である。長谷川櫂の評には「三席。雪の山道をゆけば、光の交響。冬の句だが、春の気配あり。光の一字ゆえに。」と記されている。金子兜太の評には「上位三句は〈省略〉の効果。内野氏。「光の中に」は動かない。「光の中を」では凡化。」と記されている。
確かに「迷う」は空間を目的語にする場合は「に」をとることが一般であろうから「光の中を」では成立しないだろう。掲句を含んで、金子兜太の選した上位三句の句はどれも十分な叙景であって、「上位三句は〈省略〉の効果。」の意味合いが筆者にはあまり感じられない。長谷川櫂の評にあるように雪山の春光の圧倒的なさまが主題であるから、掲句はその中に作者自身を配して十分に語られている。
◆梅林のはらおび山を巻きにけり (茨城県阿見町)鬼形のふゆき
大串章の選である。自然とは時に人工的な演出よりも驚愕すべき様を作り出すことがある。山裾か?山腹か?分らないけれどもその山のぐるりを梅の花が取り囲んで巻き付いたようになっているのである。そのように植樹されているというよりも、山の高度の差による季温帯が梅の花期をコントロールしているのだろうと考える。見事でもあるが、一種面白みのある景である。
◆三月や昔話にせぬ集ひ (芦屋市)戸田祐一
稲畑汀子の選である。評には「二句目。昔話にしないための仲間との会合。前向きにしたい作者の提案。」と記されている。以前会ったときの約束を反故にしないように、三月に仲間との集いを催そうと実行に移した、と稲畑汀子は解しているようだ。筆者は、三月の集いを昔話だけの内容にせずに今の境涯やこれからの人生の抱負を語らいたい場にしたいという作者の思いなのではないかと想像する。「に」の解釈に拠るだろうか?「昔話を」なら筆者の解釈が担保される割合が多くなるだろう。それとも評者と筆者の年齢差によるものだろうか。
その五十六(朝日俳壇平成27年3月2日から)
◆早春の雲白馬なり白兎なり (今治市)横田青天子
大串章の選である。評には「第二句。早春の雲が白く輝いている。「白馬」「白兎」の比喩が佳い。」と記されている。ぽっかり浮かんでいるのかも知れないが、ある程度の速さで流れているのかも知れない。「馬」の、「兎」の速さに適うように流れているのなら上空はかなりの強風であろう。強風の中でのぽっかりは句意の中に矛盾を生じるであろうから、これは春らしくほとんど動かない白雲である。白雲の動きが「馬」のように、「兎」のようにではないのである。それらの白雲の形状が「馬」のような、「兎」のようななのである。評に言う「白く輝いて」に春の光を感じているのだ。
◆流氷の破片を掬ふ柄杓星 (網走市)礒江波響
金子兜太の選である。評には「礒江氏。北斗の柄杓にあたる第七星が、流氷の破片を掬いとるとは、荒涼の極み。」と記されている。上五中七の「流氷の破片を掬ふ」から作者は海へ北面して眺めている構図を想像した。確かに作者は網走市在住の方であるから北斗七星の一部が水平線に落ちた頃合いの時刻の景であろう。評にあるように「荒涼の極み」と解するか、それともやがては春へ繋がる時間を感じているのかは読者の自由である。
◆晩酌や明日があれば二月尽 (岐阜市)阿部恭久
長谷川櫂の選である。評には「二席。「明日があれば」という不穏なことばが、やや切実に思われる昨今。」と記されている。一読、掲句から妙なロジックを感じた。「あれば」の位置が解せなかったのである。評のように明日の無い事態を想定すれば「あれば」の意味合いがよく解る。将に今現在は忌々しき時代へなろうとしていることを感じないわけにはいかない。
講談社刊『日本大歳時記』の「二月尽」の項目には「二月がおわること、つまり平年は二十八日、閏年なら二十九日であるが、用法としては二月も末の方という意味合いに使われる場合が多い。(後略)」と記されている。つまり「二月尽」の意味合いは末日一日限りを表現しているのではないだろうから、ことに拠ったら明日を待つ前に今日既に「二月尽」かも知れない。
その五十七(朝日俳壇平成27年3月9日から)
◆山河恋うて国を恐るる余寒かな (オランダ)モーレンカンプふゆこ
金子兜太と大串章との共選である。金子兜太の評には「ふゆこ氏。今のとき海外に暮らす情熱の人の、この思いは更に深いのだ。」と記されている。大串章の評には「第一句。「世を恋うて人を恐るる余寒かな 鬼城」を踏まえる。「人」を「国」に変え、日本と世界の危機感を示す。」と記されている。鬼城の句よりも掲句の方が、「山河」と「国」という自然といわば人工物の対比があって解り易い。人は時に自らコントロールできないものを作り出してしまうのだ。政治も然り、原発も然りである。人は時として自然の強大さを思い知ることがるのだが、人工物もまだまだ発展途上なのである。
◆陽炎や夜郎自大な政 (川越市)渡邉隆
金子兜太と長谷川櫂との共選である。金子兜太の評には「十句目渡邉氏。上五が働いて中七ますます愉快。」と記されている。今や「愉快」では済まされない事態にまで来ていると考える。
◆苦しげな流氷の音ラジオより (東京都)竹内宗一郎
長谷川櫂の選である。評には「二席。苦しみあえぐかのような流氷のきしむ音。白く冷たい氷の海で。」と記されている。筆者は「流氷の音」を聴いて貰って、「何の音か?」アンケート調査した経験がある。ドアの軋む音、伐採木の倒れる時の音、ボートの音、何かの音を機械的に加工したもの、と様々だが正解は無かった。聴いた経験のある人にしか解らない想像を絶する音ということだろうか?「苦しむあえぐ」音、「きしむ」音というだけではなくて流氷同士の衝突する際のエコーの効いた余韻の長い音が印象的だ。ラジオでは余韻はなかなか聞き取れないかもしれない。「苦しげな」と把握している点はその為だろう。現地で聞けば長い余韻の方に印象を縛って叙したかも知れない。
その五十八(朝日俳壇平成27年3月16日から)
◆力士らの梅花のやうな乳首かな (養父市)足立威宏
金子兜太との選である。評には「足立氏。「梅花」の喩えがじつに魅力的。」と記されている。講談社刊『日本大歳時記』の「相撲」の項には「本来は神事と関係の深いもので、宮廷では初秋の行事として、相撲節会があった。(後略)」と記されている。もともと初秋の季語であった「相撲」であるが、筆者などの世代は一年中の行事のようにして育ったので「梅花」があってしっくりと読むことが出来る。神へ奉納する目的が大であったから、力士の乳首を取り立てて詠むのは恐れ多いようでもあり、多神教の日本の地信仰では、色っぽくて佳しとされる向きもあろうか。
贔屓の力士の星取り表だけが楽しみなのではない。錦絵になるくらいの力士であるからその美姿・魁偉も愛でたいものである。
◆兀兀と春来る音やドロップス (東京都)大網健治
長谷川櫂の選である。舐めて半ばまで小さくなったドロップを奥歯でガリッとやったりする。その音質と春が来る音感を「兀兀と」にしてみたのだ。春は待つもので、来るものなのだ。夏のように自ら飛び込んで行くものではないのだ。「兀兀と」は時に速くなったり遅くなったりする。
筆者はドロップの欠片が歯に残るのが厭で噛み砕かずに最後まで舐めることにしている。
◆春昼や見舞ひし人に励まされ (高松市)白根純子
稲畑汀子の選である。こういうことがあるものだ。もしかしたら類想もあるかも知れないが、上五の「春昼や」が如何にも気分を楽にさせてくれる。見舞い時間に訪ねてみると、既に元気を取り戻している病人(もしかしたら怪我人?)が出迎えてくれた。世間の瑣事に追われている窶れた自分よりも余程溌剌としていて、その頼もしさにうっかりと愚痴をこぼしてしまった。見舞った自分はやれやれと思う一方で温かい気持ちになっているのだ。退院も近いに違いない。
0 件のコメント:
コメントを投稿