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2014年11月14日金曜日

【俳句時評】  仁平勝の遊びに付き合う  / 堀下翔


2000年代はノスタルジーの回収に費やされた。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)、テレビドラマ『わが家の歴史』(2010)、『ゲゲゲの女房』(2010年)といった昭和懐古作品が次々に生み出され、消費された。吹田東高等学校俳句短歌部の句集『群青』第五号(2013年)に当時女子高生であった大池莉奈がこう記している。「一昨日2020年に東京でオリンピックが開催されることが決定した。「昔は良かった」とALWAYS~三丁目の夕日~ばかり見ていた日本に、初めて(と1995年生まれの私は感じている)未来の話が飛び交っている」。すなわち2000年代のノスタルジーブームは、当時を知らない世代を巻き込む形で進行していた。下の世代の者たちは、親世代あるいは祖父母世代の懐古に長きにわたって付き合わされたのであった。

284万人とされる『ALWAYS 三丁目の夕日』の観客全員がじっさいに当時を懐古していたとは到底思われない。あの時期、若者たちは一つの大ヒット映画として『ALWAYS 三丁目の夕日』を消費した。大人たちが回収したノスタルジーは、しかし一方で、若者サイドにおいて再生産されていたのではないか。直接的にはまったく知らない昭和時代へのノスタルジーを僕たちは2000年代によって与えられた。絶え間なく供給される「ALWAYS」を下の世代が引き受け続けられた理由もここにある。若者たちはノスタルジーの発生点が奈辺にあるかを誰一人として理解しないままに、「ノスタルジー」という概念そのものを受容し、納得してきたのだ。

この六月に『仁平勝句集』(ふらんす堂/現代俳句文庫)が刊行された。既刊句集『花盗人』『東京物語』『黄金の街』の抄録に加え、『黄金の街』以後の句群も収められている。句集以後から引こう。

立春の電車に座る席がない 
いまに手放す風船を持ち歩く 
蚊遣火のまはりに風が出てきたよ 
ちり紙を落して拾ふ寒さかな

無内容で軽い。かつての「探偵の一寸先は闇の梅」「蓮の香や一男去ってまた一男」(『花盗人』)「童貞や根岸の里のゆびずもう」(『東京物語』)といった仕掛けにあふれた句はほとんど見られない。もっとも仁平はこれらのおもちゃのような句と並行して上に引いたような句を昔から多く残してきた。

百日紅こんどはぼくが馬になる 『花盗人』 
弾丸の出ぬ特別付録年変る 『東京物語』 
長兄の手品はいつも薔薇が出る  
夏休み親戚の子と遊びけり 『黄金の街』


あっと驚くような記述はどこにもなく、だから筆者はこれらの句のすべてに対して納得してしまう。こんどはぼくが馬になると言った少年の気持ちも、弾丸の出てこない付録の充実感も、兄が出してみせる薔薇の安っぽさも、親戚の子が来る楽しさもすべてである。筑紫磐井は彼の「初恋は色水を飲む役どころ」を挙げて「仁平の俳句は基本的には、昭和三十年から四十年代の原風景によって語られているようだ」と指摘した(「仁平勝が評論家となり俳人となるとき」邑書林『仁平勝集』所収)。彼の句の親しさはおそらくノスタルジーに起因している。読者は彼の句に触れ、確かにこんなことがあったな、と思う。

重要なのはそれらが原風景的である点にある。それは心象的なイメージであり、記憶の具体的な記述ではない。昭和25年生まれの筑紫のみならず平成7年生まれの筆者さえもが彼の句に納得しうるのはつまり、そのノスタルジーが実体から乖離しているためではないか。2000年代のノスタルジーブームはしばしば指摘されるとおり実際の昭和を誠実に描いていたわけではなかった。衛生や経済といった部分のくらさを大人たちは思い出さなかった。2000年代に再生産された昭和は変奏ですらない別物であったろう。末梢の事実がよく分からなかったからこそ下の世代は曲りなりにも大人たちのノスタルジーに付き合いきれていた。われわれが仁平の句を読んで何らかの共感を覚えうるのもまた、ここに描かれた世界が、どの記憶にも収束しない、たとうれば季語の本意ならぬ時代の本意のごとき存在であったがためである。

筆者はなにも作り上げられたノスタルジーの共有を切り捨てようとしているのではない。驚きはむしろその喚起力の高さにある。「長兄の手品はいつも薔薇が出る」を読んだ人間はその切なさに立ち尽くすだろう。いつも、つまり長兄はもう何度もこの他愛のない手品を弟妹たちに見せている。出てくるのは薔薇だ。大の男の手から取り出されるものが薔薇であるとはなんとチープであることか。美しいものとして取り出されたはずの薔薇が、長兄の手を経ることで言いようもなく情けなくなる。薔薇なんていう美しいものを出して見せる男の情けなさである。ノスタルジーはどう転んでも切ない。仁平の句はその意味ではじめから切なさの文脈に置かれている。

追憶はおとなの遊び小鳥来る 『黄金の街』

仁平の遊びに付き合いきれる読者は多いだろう。それら一つ一つに立ち尽くす遊びはとても楽しく、それ自体が懐かしい気もする。




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