◆猫を呼ぶ虚栄や朝の山粧ふ (船橋市)斉木直哉
金子兜太の選である。筆者はこの句を読み切れない。何故なら猫のことを何も知らないからだ。動物の句は色々あるが、猫と犬ほど人に密着してそのイメージが縦横無尽な存在はないだろう。彼ら彼女らは時に家族であり、時に敵対するものであり、常時われわれ人を教え導く存在でもあるのだ。作者は、自身の虚栄心を指摘することで猫の存在の何たるかを表現しようとしている。作者にとってこの猫は同等かそれ以上の格位を有しているのかも知れない。
それにしても中七後半から座五の「朝の山粧ふ」は適合しているであろうか?季題の表現に「朝の」を付加して一層複雑化している、もしくは限定的に使用している。朝起きてみたらくらいの意味で解してよいのであろうか。作者にとっては特殊な意味合いがあるようだが、読者には無関係である。筆者には季題の確定が弱いように考えられる。
◆ドン栗が話をしたり笑つたり (所沢市)小泉清
長谷川櫂の選である。団栗を擬人法で叙した表現である。「ドン」というようにカタカナ書きすると首領(ドン)のようであって、団栗の親玉同士が談笑しているように読めたりする。団栗が降りしきる頃の情景であり、その降ってきた団栗が丸みのあるが故に転げている様を話したり笑ったりと表しているように読める。
◆海に降る雪は音なく消えにけり (東京都)池田合志
大串章の選である。雪はどんな場合も無音なのである。地に降る時も、空を舞い降りる時もである。融ける時にも無音であり、時にヒューヒューと聞こえる時は風の音が代弁して聞こえているのである。
雪辱という言葉があり、降り敷く雪がすべてを覆い隠してしまう様子を表現して、辱を雪ぐ意に用いるのだが、海上では雪辱することなく雪は「音なく消え」てしまうのである。筆者は、この句の中に誓子の「海に出て木枯帰るところなし」の含意に似たものを感じてしまう。象徴性の高い句は教訓の句に陥ってしまうことがあるが、掲句は自然への鋭い観察眼によってその難を避けて成功している。
その四十二(朝日俳壇平成26年11月24日から)
◆果なきは青きことなり秋の空 (大和郡山市)中西健
長谷川櫂選である。評には「三席。こんなに青い空の下、人はなぜ瑣事に追われるのか。自省の一句?」と記されている。評は作者の自己存在を句中に意識している。自己投影とは若干ニュアンスが異なるが、作者の心境を慮っての句の解釈なのである。が座五「秋の空」の季題を上五中七で表現していると、素直に受け取ってもよいのではないだろうか?
果てしなく青い秋の空は、ポジティヴな表現である。当然のことに大自然に比べれば人間の何と小さいことか!その小さいことに比して自分自身の小ささをネガティヴに受け取るのか、それとも小さいながらも自分自身を大自然に投げ出して自己をも自然の一部であろうとしてポジティヴに受け取るかは夫夫の心の持ち方である。失礼ながら、この選評は評者・長谷川櫂自身の思いを重ね合わせている評ではないだろうか。当然のことであるが句の解釈は読み手の自由である。それでも筆者は、決して作者は瑣事に追われる自己を叙しているのではない、と考えたい。
◆枯蟷螂命ばかりとなりにけり (いわき市)馬目空
長谷川櫂選である。「枯蟷螂」は未だ骸とならない状態であるから、中七座五「命ばかりとなりにけり」は「枯蟷螂」のことである。「枯蟷螂」を視る作者の目は、「枯蟷螂」を鏡として自己をその中に見出しているようにも読める。一読、シリアスな印象を与える句であるが、読み返すうちに作者の清々しい心境を句底に見出すことが出来た。後は次代へ生を継ぐだけである。実はそれが大仕事であるが。
「なりにけり」の措辞が、大きなタメを作り出していて、重荷を下ろして身軽になった感があるのだ。逆説的ではあるが、心が軽くなる思いである。
◆稲妻に一瞬顔を見られたり (稲沢市)杉山一三
大串章選である。座五の置き方は典型的な俳句の手法である。稲妻が光って、その一瞬に顔が露わになった、ということである。ところで誰に見られたのであろうか?上五「稲妻に」とあるので稲妻を擬人法的に捉えて、顔を見たものが稲妻のようにも読めるところが面白い。
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