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2014年10月17日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十六・三十七~ 網野月を

その三十六(朝日俳壇平成26年10月6日から)

◆褒めすぎて冬瓜二つもらひけり (柏市)物江里人

稲畑汀子の選である。冬瓜の個数の議論はこの場合外にして、ポイントになるのは何と言っても「褒めすぎて」の言い回しであろう。冬瓜を貰ったのが返って迷惑なようにも読めるのである。褒めすぎなければ・・、が伏線にあるのだ。迷惑までは言い過ぎでも、持ち帰る手荷物が増えて少々厄介な様子なのだ。「褒めすぎてしまったから・・冬瓜を二つ貰ってしまったのだなあ」くらいの意であろうか?少々因果関係も垣間見える。

座五の「・・けり」が大仰な言い方で、文字通り「すぎて」いるのが面白いのだ。

それにしても何を褒めたのであろうか?冬瓜二つ分になるものなのだが。

◆裸富士われも行けそう目を凝らす (栗原市)小野寺實

金子兜太の選である。評には「十句目小野寺氏。「裸富士」には季語「裸」の生々しさがあって、中七下五の親しげな感応がよく伝わる。」と記されている。「裸」が富士を擬人化して新しい。積雪を脱ぎ捨てて文字通り裸になった富士山に作者は登山しようというのだろう。座五「目を凝らす」は何を見ている景なのだろう。ガイドブックか?地図か?それとも富士山そのものを見据えているのだろうか。

◆水澄んで己の見えぬ目が二つ (松山市)高階斐

長谷川櫂の選である。上五の季題「水澄んで」は全てのものがクリアに見えるようになったこの季節に、という意であろうか。それにしても中七座五の「己の見えぬ目」はパラドクスであり、言われてみれば肯ける事実である。鏡にうつせば自分自身は見えるのだが、今や水が澄んで水鏡に自分自身が反映されない。見えたとしてもそれは反映でしかないのである。


上五の「・・で」はどうであろうか?多少中七座五との原因結果が感じられはしないだろうか。しかも句全体に切れが弱い。ので、上五で切れるように工夫しても良いかも知れない。作者の好みであるが。


その三十七(朝日俳壇平成26年10月13日から)
                          
◆切株の大小残し湖水澄む (熊谷市)内野修

金子兜太の選である。評には「内野氏。大小の切株が語り部のごとし。」と記されている。前半部分を「大小の切株残し」とも考案出来るが、作者は掲句の仕方を選んでいる。作者の叙法の方が、より切株に大小があることを強調するように思われる。切株についての情報については、切ったばかりとか?何の木であるとか?無いのである。筆者は「大小」から植樹林ではなくて湖畔の自然林を想像した。自然林へ人の手が加えられたその景は無残であり、樹木を切る人間の傲慢さへの作者の怒りが聞こえてくるようだ。

座五の「湖水澄む」の季感が上五中七の意と適合するか考えなければならないところだが、先日の朝日新聞の摩周湖の水質に関する記事からすると即妙な取合せであろう。とすれば、・・・切株は湖底の景なのであろうか?

◆御嶽の怒る悲しき九月かな (伊賀市)福沢義男

金子兜太と長谷川櫂の共選である。事故への哀悼の意を表す句であり、時事となるで俳句であろう。嘗て数十年前以来何回も議論されて来た俳句の社会性(「接社会的」と言ったりする場合もある)とは視点が異なるが、東日本大震災以来、各俳人は積極的に時事への作句を行っているように感じる。

「怒る」が噴火の形容であることは明らかであるが、「悲しき」の表現は表現として少々甘いかも知れない。時事としての重大さは十二分に理解するのだが。

◆さといものはっぱはあめのすべりだい (八女市)くまがいすずな

金子兜太の選である。評には「十句目くまがい氏。この見立ては少女くまがいさんのもの」と記されている。「さといものはっぱ」と「あめのすべりだい」は同じ文型であり、上下の同型文を「は」で綴じている。ただし「の」の働きは異なっている。掲句はおよそ俳句としての常套とは遠い言い回しとなっているが、評で言う「見立て」が優れている。蛇笏のかの句「芋の露連山影を正しうす」も透明度という観点からは掲句へ頂座を譲ろうというものである。視角が捉えた印象を語句と云う象徴にトランスレイションする際の、インプットとアウトプットの際の透明度である。「青春は、清新な感性を純粋に現わしさえすれば、それだけで十分美しい。」(神田秀夫「現代俳句小史」より)のである。




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